「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 第12回古代史講座 古代田川を解き明かす
  豊の国の織姫 ―邪馬台国の絹―
 (令和元年八月三日(土)、主催 田川広域観光協会古代史研究会 、於 香春町町民センター町民ホール)より

 豊の国の織姫 ―邪馬台国の絹―

■ 瀬成神社(中元寺)/瀬成神社伝承/彦山北麓・中元寺の織姫

● 彦山北鹿の中元寺の織姫

 瀬織津姫という大祓(おおはらえ)に出てくる神を中元寺に見つけた。彦山北鹿の中元寺の織姫です。

瀬成神社(中元寺)
「写真」

 

● 瀬成神社伝承(「ふるさと中元寺」より)

 瀬成神社の伝承は、昭和に出来た「ふるさと中元寺」という本からである。

瀬成神社伝承
(「ふるさと中元寺」より)
 瀬成神社も、中元寺はおろか、筑豊一円に
広く、農耕、牛馬の神として、尊敬されたお
宮です。
 御祭神は、
  豊宇気姫神(とようけひめのかみ) 瀬織津姫神(せおりつひめのかみ) 速開津姫神(はやあきつひめのかみ)
の御三神にまします。
 当社の縁起によれば、昔、中元寺の里は、
大原 庄虫生と称していました。
 東方に高台があって、毎夜何となく騒然と
するので、遠望して見るに美しい大廈高楼
軒をならべ、数千の灯が宮殿の中のように燦
いて見えます。近づいて見ようとすると、そ
れは水絵のように消えて、全く何も見えなく
なります。不思議という外はない現象が、毎
晩起りました。
 ある日、村の子供が一人行方不明になりま
した。

 

瀬成神社伝承2
 父母は我が子を失って、気の狂わんばかりに
嘆き悲しみ、村人も同情して、方々を探しまし
たけれども、その夜は遥として行方がわからず、
悲嘆にくれました。
 ところが翌朝飄然として帰って来ましたので、
村民はびっくりして訳を尋ねました。
 村童の語るところは次のようです。
 私は、昨夜独り門前にたゝずんで居ますと、
素晴らしくきれいな服をまとった天女のような
人があらわれて、「私について来なさい。あな
たに沢山の天女が羽衣を織っているところを見
せてあげましょう。でも、ものを云ったりして
はいけません。」と、云いました。
 私は、その女についていきました。
 着いて見ますと、大きな家が軒を連ねてたち
並び、どの家もこの家も、金銀の燭台に、あか
あかと灯がともって、昼をあざむくような灯の
もとで、多くの天女が並んで、銀の梭で機を織
っている
ではありませんか。

 

瀬成神社伝承3
 腕にまとった錦の衣が、ひらひらと翻ってまる
で胡蝶が舞っているよう
です。歌う声は迦陵頻伽
のようでした。
 私はこの美しい光景に見とれて、恍惚となって
いました。
 しばらくして、一人の老女があらわれ、「あな
たは、帰ったら村の人に告げなさい。 私たちは、
天祖の神勅を奉じて此の地に来 ました。中心に
居られた方は、豊宇気姫神と申されます。蚕を飼
い、繭をつくり、糸をとり、機を織って
います。
今あなた方の着られている着物もみなそうですが
、この神の御恩によるものです。
 けれども、村の人はこの神様の事を知らず鎮座
する御殿もありません。相談して、速やかに神殿
を建てて祀りなさい。」
 こう云われましたと、云ったとたんに、彼の村
童は倒れて、数日間人事不省におちいりました。
村の人々は、之をきき大へん恐れ多く感じて、真
心こめて宮殿を村の真中に建ててお祀り致しまし
た。

 

瀬成神社伝承4
 これがこの神社の起原です。
 それより、蚕を飼ったところを「飼野」、繭を
つむいだところを「繭野」、機を織った所を衣原
または錦原(きぬのはる)と云うようになりました。
 また、飼野と繭野は地つづきになっていますの
で、飼繭けえめなどと呼んでいますが、誤り伝え
られたものということです。
 その後、宣化天皇の御代に、鷹羽の巫女伊智女
が、神勅を蒙ったと云って、中元寺の里に来まし
た。
 彼女が云うには、私は或る夜、一人臥していま
すと、夜半に枕上に神様が現われて、「私は、虫
生庄に鎮座する豊宇気姫神です。吾が庄には、小
さな川がありますが、毎年大雨か降りますとすぐ
に激流と変わり、沿岸をこわし、住民に溺死する
者ができ、之を見るたびに、私の胸は悲しみに痛
んでなりません。私の側に、水の霊神を祀って下
さい。」との、お告げがありました。
 私は、始めは怪しんでとりあいませんでしたが、

 

瀬成神社伝承5
三夜続けて枕上に立たれましたので、恐れて此の
村に来て見ますと、地形が神の仰せと少しも違う
ところがありませんので、お知らせしますと云う
ことです。
 村の人々は之を聞いて、「神慮の有難さには疑
う余地もありません。」と云って神勅に従い、
織津姫神と速秋津姫神
の二神を、豊宇気姫神の社
に合祀することにしました。
 伊智女は、一七日の潔斎をして、うやうやしく
お祭りを執行致しました。
 それより社号を、瀬成神社と改めました。瀬成
とは、瀬(水の浅い流れ)が無くなるの意で、水
が氾濫せず、以後村内に溺死者を出すようなこと
はなくなりました。
 以上の縁起を拝察致しますと、中元寺の地形乃
至先住民族の姿が髣髴として想像されます。
 すなわち、中元寺の古代は、大原庄虫生とあり
ますように、三方山に囲まれた谷合いに一条の小

 

瀬成神社伝承6
流―中元寺川があって、その川の両岸には、かな
りの原野があつたものの(大原庄)猿渡り附近は
両岸が迫って狭くなり、川は浅くて排水が悪いた
めに、虫生と呼ばれるくらい害虫の多い湿原地帯
ではなかったかと思われます。
 そこで先住民族は、東方の高台―現在の金の原
に主として住居を構え、農耕に従事したことでし
ょう。久富翁の所持する石器や土器も、この金の
原で採集されたものと云われています。
 こうして、金の原に、日本で農耕の神と称えら
れる、伊勢神宮外宮の保食(うけもち)神を先づ祀り、次に災
難や穢れを祓う瀬織津姫の神と、水門を司り、水
を支配する速秋津姫神を祀って、治水を果した

いうことで、中元寺の郷の、地形と、農耕文化発
祥の過程が物語られているように思われます。

 

● 中元寺は、大原庄虫生といった

 「金の原」の地名は、元々は、衣原・錦原で「金」は付いていなかった。

彦山北麓・中元寺の織姫
瀬成神社(大原虫生庄 → 中元寺)
祭神
豊宇気姫神養蚕の神)(保食(うけもち)
瀬織津姫神(祓戸大神)
速開津姫神
※ 東方の高台(金の原)に大廈高楼
※ 沢山の天女が天の羽衣を織る中心の天女が
 豊宇気姫神

 飼野・繭野・衣原または錦原
※ 宣化天皇の御世(536~539)
 鷹羽の巫女伊智女、神勅を蒙る
 瀬織津姫神(水の精霊、龍神・水神)と
 速秋津姫神を合祀
「写真」
「写真」
「写真」

Ⓒ金の原のおさんぎつね

 

● 金の原遺跡の東は、庄原遺跡

 金の原遺跡が、接している庄原遺跡からは、青銅だと思われる金属溶解炉跡が、発掘されている。23~2400年前で
しょうか?そこからは、やりがんなの鋳型も出土されている。やりがんなというのは、今でも宮大工が使う大工道具で
ある。
 という事は、伝説通りに金の原には、宮殿=今の宮に見られる立派な木造建造物が建てられていたという事である。

 金の原遺跡は、調査して発掘したのではない。農家の人が耕していると出てくる。

 土器片と石器類ともに、立岩式石包丁も出土している。その立岩遺跡から発掘した鉄矛の柄のところに平絹が、
張り付いていた。という訳で金の原遺跡の弥生時代に絹が織られていたという可能性が高い。瀬成神社の伝承は、
ただの伝説とは思えない。歴史事実があっての伝説だという事だと思われる。

彦山北麓・中元寺の織姫
台地に広がる金の原遺跡(添田町史)
① 中元寺から川崎町上真崎にかけて南北
 三キロに広がる。
 東は庄原遺跡に接する。(宮殿
② 農耕作業中に
 縄文時代~弥生
 時代の遺物を採
 集。
③ 土器片と石器
 類が出土。
 立岩式石包丁
 出土。(
「写真」

庄原遺跡 金属溶解炉跡

写真「庄原遺跡のやりがんな鋳型」

やりがんな鋳型

「写真」

鉄剣、鉄矛

 

● 彦山北鹿、彦山南麓の豊前国

豊前国
地図「豊前国」