「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 再発見 新発見 田川 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡
 (令和元年十月二七日(日)、主催 豊の国古代史研究会 、於 川崎町勤労青少年ホーム )より

 川崎町は古代の京だった 神武・神功・應神の軌跡

 本社大石神社 末社帝階八幡神社

 帝階八幡神社縁起
 家伝に云うには、八幡宮応神天皇は筑前の国御笠郡(うみ)ノ宮(宇美八幡宮)に御降誕になり、御歳七歳までその国の香椎宮(福岡市東区)に御生長されて、この年に豊前国の人、名を宇佐津彦宇佐津姫の求めによって、香椎宮から御遷幸になり、豊前国字佐に向かって行幸なさる。
 だから香椎宮は空宮と成る。そこで郡名
「帝階八幡神社縁起」
 帝階八幡神社縁起
を粕屋という。行幸の御道筋に粕屋郡より穂波郡に移る道に笹操と云う地がある(今そこを笹栗と云う)。そこより穂波に越えるときに山越の所がある。
 その峠はたいそう険しくて、皇太子はまだ御七歳の御幼年でいらっしゃって御歩行なさるのが難しいのでお供の軍人らが畏かしこみ申し上げ、いろいろと工夫をめぐらし、ある者は「背負い申し上げよう」と云う。また、「抱き申し上げよう」と云う。
 家来らがやかましく云う内に一人の老人が進み出て、「背負申し上げるのはたいそう畏れ多い、また抱き申し上げるのは皇太子のお体が大きいから越えることはできない。ここは四人でかつぎ申し上げるべきだ」と申すのを皆が承諾して、御乗物を造る時に木を用いた。
 また、人が進み出て云うには、「木で造った乗物は棺である。不吉極まりない。ま
 帝階八幡神社縁起
だ生きている人をかつぐ乗物を造る例は無いから、皇太子の御乗物は竹で造るべきだ」と云うのを、人が皆承諾し、青竹で笹附きのまま御乗物を造ったので竹の葉が左右に回ったので地名となった。
 笹操(これは先の笹栗である)はすなわち我が国の乗輿の始元であると我が家に伝わるが、また、後世に武家の乗物を駕籠と云うのも、竹製にするのも八幡宮(応神天皇)御凱陣の時、竹の乗物で御遷幸なさった吉例と云い伝えている。その駕籠に皇太子を乗せ申し上げて穂波郡に越える。その山越をショケ越えと云う。これは(筑豊の語であって竹を用いて造る器をショケと云う)すなわち竹駕籠に皇太子を乗せ申し上げ越えたところから発おこった地名である。その越え終わりの地を大分と云う。
 そこから豊前国の境までお道筋に古跡も数多くあるけれども、この伝に採用しない
 帝階八幡神社縁起
筑前風土記や貝原(益軒)の八幡本に詳細であるからここには省略する。
 そもそもお駕籠が豊筑の境にある山に掛り、山がたいそう急峻で御乗物を造る竹の葉がめりめりと鳴り響いたのでそこを笹喚峠と云う。笹目峠とも云う。その麓に至りなさった時、鼠池に臨んで水を飲んでいらした皇太子が観覧なさって「鼠が池に居る」とおっしゃる。その池を鼠ケ池と云う。
 そこからお駕籠を弓削田ノ庄に転じなさる道筋に、若木に花の咲いているのを皇后が御覧になって「たいそう美しい花であるよ」とおっしゃる。そこを弓削田村小字に若咲花と云う。(今若狭ケ鼻と云う。)
 そこからお駕籠を速瀬川の堤に沿い、川上に進みなさる時、地が平らになって御乗物が不用になったので路傍に捨てなさる。
 今弓削田村の田甫にショケカ森といって神森がある。そこからなおお進みになり、
 帝階八幡神社縁起
御行宮(御皇在所)の傍にある川原にお着きになられる時に土地の人々老いも若きも供にお迎え申し上げ、御拝礼しようと集まり居たところ、皇太子はショケにお乗りになっていると聞き及んでいたが、皇太子の御歩行を見て、「ショケは無しや」と云う。そこをショケナシと云う。今はケナシと云う。糸村にある。
 そこの下の川をお渡りになる時、群集の人が皆、皇太子のお顔を拝み申し上げて、「皇太子は姫君である」と云い触らし、そこを乙女渡と云う。これは御行宮旧跡の近傍の渡場である。その渡しからすぐに御行宮であるけれども日が急に暮れて、皇太子は御駕籠や御歩行にお疲れになったか、御行宮の周りに張ったしめ縄をご覧になり、たいそうお喜びになり、「早七五三か」とおっしゃる。そこを連見(しめみ)と云う。今池尻村にある小字である。(今シリ免と云う。)
 帝階八幡神社縁起

 そこの次は御行宮地であって小字を宮ケ坪と云う。すなわち、位登宮の古跡であって、今に少しの石塚を残し、その坪数は三十歩くらいあって、帝階(たいかい)八幡宮はこの塚に祭ってございます。
 その宮ケ坪の南の次の小字を(こも)と云う。この地は御両皇(神功皇后・応神天皇)猪尻豊波が御饗応(おもてなし)に池を掘り魚鱉(魚やスッポン)を放ってご覧に備えた物であって、後に御行宮に用いた菰をその池の中に沈めて池を潰し、今わずかに二十歩余り形を残している。
 その南方の次の小字を王坪と云う。(今は大坪と云う。)この地も御饗応に設けた台であって、池を掘って魚鱉や鳥を放って慰め申し上げた地であって、今にその池が残り、およそ三十歩余り残る。その池は菰池と違い、よほど大池であったか、後永く潰されなかったか、その東側の小字を亀田
 帝階八幡神社縁起
云う。この池からスッポンが田に出て遊んでいた地と云う。
 王坪の西の小字を帝階と云う。(今大海と云うのである。)その大坪の南に帝宝前の小字が有った。(明治改正より大坪にその字を組み入れた。)帝宝前から南三丁余り離れて宇佐津彦・宇佐津姫が奉迎に出たが、御目見えの有った地を相ノ本と云う。
 御行宮から卯辰の方(東と東南東との間)に二丁余り離れて式部迫と云う小字がある。ここは、皇太子御即位の御式典を執行された地と云う。
 また、御行宮の寅卯(東と東北東との間)のおよそ一丁余りを離れて陣地と云う字がある。これは御行在所警護の兵を置いた地と云う。(今は陣市と云う。)
 すべて池尻の地は小字を御行在所によって起こした物が多い。そうであれば、応神天皇御即位の地「位登宮」は帝階宮の鎮座
 帝階八幡神社縁起
される宮ケ坪である事は明白である。
 これは古老の伝ではあるけれども、その証拠を挙げると、本社大石神社の元御鎮座なさった地は今古宮と呼び、田園の真ん中にある地で、寛永十三年(一六三六年)に今の月見山伝住寺に移し申し上げた。
 その由縁は、領主小笠原氏が寛永九年(一六三二年)に小倉城に入国なさった。翌々十一年(一六三四年)に領分豊前の内六郡を巡検なさった時、大石神社の社森を見て、この社を向かいにある高山に移し、跡は開いて田畠と成すべしと厳命 があったが、神職と村人が皆歎いて、上意は畏れ多いけれどもこの社は孝徳天皇の御世からおよそ千余年、久しくこの地に鎮座なさっていたからそのままに御立置き下されたいと歎願するが、領主はお聞きになって、最もの願いであるけれども神社を低地の田中に安置し、広大な地を無毛にしておくのも無益の至りだ、また、低地の社は汚
 帝階八幡神社縁起
らわしく高山の社地は清浄であって、ことさら風景も特に良いからあの山に移すべきだと云いつけたので、領主の厳命をどうすることもできず、十三年六月十六日に御社を移し、跡を開墾して田畠と成した
 以上のように、地所を貴重に扱った世も今なお田中にある。池や石塚なども農事の妨げが少なくないけれども、今に残っているのはすべて応神天皇の御旧跡を貴び申し上げるものである。
 また、帝階八幡宮の御祭神に天照大皇大神を斎いつき祭るのは、皇太子御即位に皇祖天照大神を御祭りなさったからである。
「帝階八幡神社縁起」

 末尾にこの「帝階八幡神社縁起」が書かれた経緯を記す。

 当本縁起はとりもなおさず文書は天平宝字年間(757~764)に現れた。古文字であってすでに多くの諸人が読むことができない。私は後世を不安に思い、通用の文字に改める。
   天正二年(1572年)六月十六日           社詞 杢之進 謹書

 帝階八幡神社の帝階という名前を残さず、なぜ大石神社というのか?は、元々は、太后神社ではなかったのか?。

川崎町大石神社の正体
神功天皇帝階八幡)
神功皇后
太后
大石神社の真の主祭神は
  神功「大后」だった
写真「大石神社」

 

 池尻中
地図「池尻中」

 

 田川広域観光協会古代史研究会
地図「田原遺跡」

第5回古代史講座
 古代田川を解き明かす

~田原遺跡について~

 

 田原という名前は、神功皇后に仕えた田原麿(麻呂)という人が居たところであろうと考えている。

 田原遺跡
地図「田原遺跡」