「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
鷹羽の神々 -倭成す大物主-
■ 天満倭国 / 神武天皇 / 綏靖天皇 / 崇神天皇 / 卑弥呼
大国主が、国譲りをした。先ほどの古事記の大国主の系図では、大国主の後に十七世続く。大国主は、
いつ国譲りをしたのか?
一世を20年としても何年かかるのか。それで何故、いきなり天孫、建御雷神(たけみかづち)に
国譲りをしたのか。それで、出雲に閉じ込められて出雲大社に幽閉されたという。年代が合わない
大国主の陰にいる大物主という神様は、もっともっと古い神様である。大物主の子孫が湏佐之男であったり、
大国主であったりする。古事記や日本書記はそこまでして神の系譜を入れ替える。
饒速日(=天照大神)が豊国を侵略した。その饒速日は、先代旧事本紀には、天神様であって天物部氏を
率いて来たこととなっている。
大国主、大物主の別名は、八千矛神でもある。ここ九州は弥生時代の遺跡からいっても銅矛文化圏である。
大物主が古事記 別天神五柱に書いてある英彦山の4番目の神であって、稲作の神であって、八千矛という
武器を持つ軍隊を携えた神である時、大物主も豊国への侵略者である。
縄文時代の英彦山の神を押しのけてやって来た神が、大物主である。大物主のずーっと後の大国主が
また新たにやって来た天神様に国譲りをする。
筑豊の土地は、歴代の王が何度も何度も王朝を交代している。その王朝交代を隠したのが、古事記・
日本書記である。
饒速日の建てた倭奴国という志賀島から出土された金印のある国が、熊本方面から出てきた神武天皇に滅ぼされる。
これが、「神武は筑豊に東征した」という根幹である。
求菩提山八天狗像の中央の大天狗こそ、大物主の神だった。江戸時代の作ではあるが、日本で最も古い八咫烏の木像である。
この魏志倭人伝の部分に神武天皇が書かれていると常々言っている。
倭国大乱は、物部氏の反乱である。
日本書紀 神武天皇紀の末尾に大己貴大神が出てくる。大己貴大神が名付けて「玉牆(たまがき)の内つ国。」と
言ったと書かれている。
香春町鏡山にある神功皇后の伝承の地「鏡乃池」の少し奥に「玉垣様」という小さな石祠がある。
香春岳が、三輪山であり、そこに大物主の神が祀られていた。その香春岳の直ぐ近くの鏡山に「玉垣様」が
祀られている。これは大物主であった。
倭国大乱の時代に前方後円墳が造られたのでないだろうか。
倭迹迹日百襲姫命が、わが国の古事記・日本書紀においてこの女性が卑弥呼であると通説にもある。それで良いと思う。
大物主の妻であるということは、合わない。
倭迹迹日百襲姫命は、巫女である。巫女が岸倭人伝に書かれた女王となっている。
「この神酒(みき)は わが神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久 幾久」のこの歌は、
卑弥呼が詠んだ可能性がある。
卑弥呼(=倭迹迹日百襲姫命)は大物主を祀ったのである。魏志倭人伝で鬼道と書いている。先祖を祀った。卑弥呼は、
神武天皇の家系ではなく、大物主の家系だった可能性がある。
英彦山の4番目の神の家系を継いでいるから大物主を祀る。その卑弥呼がこの倭の国を治めた。だから、邪馬台(やまと)
国=田川説を取っている。奈良県ではない。
※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より
神武天皇の後の崇神天皇の頃、倭国大乱が収まった時の言祝ぎの歌に「倭成す大物主」が歌われている。何故、大物主が
倭国を造っているのか?
伊邪那岐じゃない。神武天皇でもない。そのもっともっと前に大物主が倭国を造っている。しかし、古事記には、大国主が
国造りをしたとしか書れていない。古事記、日本書紀の国生みの中心は、伊邪那岐と伊邪那美である。
この「倭成す大物主」は、何だろうか?その大物主の醸(みし神酒が、豊神酒なんです。後の神功皇后が、豊国を侵略して
きた時にも豊神酒という言葉が出てくる。
大物主以来の倭国を次々に新しい王権が奪い取って、年がら年じゅう大物主を祀るという行為が繰り返されている。
<赤村大原>
安田靫彦氏の描いた卑弥呼。背景は、火山が描かれている。この画家は、邪馬台国近畿説を採っていない。
豊後に行けば火山だらけである。豊国は、豊後も含まれる。
箸墓の由来の中に「麗しい小さな蛇」が書かれている。大物主は、蛇神である。八俣遠呂智と同じく大物主も
八幡神かも知れない。
この古墳の真北に大物主神が坐していた三輪山(香春岳)がある。この古墳は、香春岳を向いている。大物主に
向かってこの墓は造られている。
ここから出土している土器片。 これを熊本県菊池の久米八幡宮の宮司である吉田正一さん(熊本県で発掘に
携わっている)が、弥生時代から平安時代の土器片である。と言われた。
平安時代までこの土地の人々は、卑弥呼の墓だとしっていたのかも知れない。