「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 第13回古代史講座古代田川を解き明かす
  鷹羽の神々 -倭成す大物主-
 (令和元年十月二〇日(日)、主催 田川広域観光協会古代史研究会 、於 福岡県立大学大講義室)より

 鷹羽の神々 -倭成す大物主-

■ 天満倭国 / 神武天皇 / 綏靖天皇 / 崇神天皇 / 卑弥呼

 

天満倭国=倭奴国成立
前一四 饒速日、葦原瑞穗國の笠置山
 降臨。
 天満倭国=倭奴国が成立する。
 饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲(なかつくに)
 皇都を建設。
 天物部
 八十氏
 が筑豊
 の山や
 島を領
 有し、
 「山島
 に居し、
 分かれ
 て百余
 国を為
 す
」。
写真「笠置山」

 大国主が、国譲りをした。先ほどの古事記の大国主の系図では、大国主の後に十七世続く。大国主は、
いつ国譲りをしたのか?
 一世を20年としても何年かかるのか。それで何故、いきなり天孫、建御雷神(たけみかづち)に
国譲りをしたのか。それで、出雲に閉じ込められて出雲大社に幽閉されたという。年代が合わない
 大国主の陰にいる大物主という神様は、もっともっと古い神様である。大物主の子孫が湏佐之男であったり、
大国主であったりする。古事記や日本書記はそこまでして神の系譜を入れ替える。

 饒速日(=天照大神)が豊国を侵略した。その饒速日は、先代旧事本紀には、天神様であって天物部氏を
率いて来たこととなっている。

 大国主、大物主の別名は、八千矛神でもある。ここ九州は弥生時代の遺跡からいっても銅矛文化圏である。
大物主が古事記 別天神五柱に書いてある英彦山の4番目の神であって、稲作の神であって、八千矛という
武器を持つ軍隊を携えた神である時、大物主も豊国への侵略者である。
 縄文時代の英彦山の神を押しのけてやって来た神が、大物主である。大物主のずーっと後の大国主が
また新たにやって来た天神様に国譲りをする。
 筑豊の土地は、歴代の王が何度も何度も王朝を交代している。その王朝交代を隠したのが、古事記・
日本書記である。

 

神武天皇の第二次東征
一一八 春二月、第二次東征開始。
  「日を背にして戦う神策」を実行に
  移す。
   速吸門(速吸日女神社)に至り、
  珍彦を道案内とする。菟狹(安心院
  妻垣神社
)に至り、一柱騰宮に入る。
(日本書紀要約)
 数ヶ月、狹野
嶽(求菩提山)
に通い、「頭」
大天狗(豊前
坊)及び「八咫
烏」(求菩提山
八天狗)一族と
同盟を結ぶ。
 この間、吉野
の国樔(玖珠)

部らを巡撫。
「写真」

安心院妻垣神社

 饒速日の建てた倭奴国という志賀島から出土された金印のある国が、熊本方面から出てきた神武天皇に滅ぼされる。
これが、「神武は筑豊に東征した」という根幹である。

 

求菩提山の大物主(頭)

頭八咫烏

求菩提山八天狗像

「写真」

頭八咫烏

東京 高尾山の大天狗

「写真」

 求菩提山八天狗像の中央の大天狗こそ、大物主の神だった。江戸時代の作ではあるが、日本で最も古い八咫烏の木像である。

 

倭国=邪馬台国創始
一二一辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、
 橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。」
神武即位
『魏志倭人伝』「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼」
(魏志倭人伝)部分
一三九 皇子神渟名川耳尊、手研耳命大王を
 弑し
、王位を奪う。「太歳己卯」
一四六~一八九 桓・霊の間、倭国大乱。
(謝承・范曄後漢書)
「豊国 対 火国」

 この魏志倭人伝の部分に神武天皇が書かれていると常々言っている。
 倭国大乱は、物部氏の反乱である。

 

神武天皇紀の大己貴大神
 復た、大己貴大神(なづ)けて曰はく、
玉牆(たまがき)の内つ国。」とのたまひき。
 饒速日命、天磐船に乘りて、太虛(おほぞら)
翔り行きて、是の(くに)(おせ)りて(あまくだ)りた
まふに及(いた)りて、故、因りて目けて曰
はく、「虛空(そら)見つ日本の国」と曰ふ。

香春町鏡山にある「鏡乃池」。
この少し先に「玉垣様」という
小さな石祠がある。

写真「香春町鏡山の鏡乃池」

 日本書紀 神武天皇紀の末尾に大己貴大神が出てくる。大己貴大神が名付けて「玉牆(たまがき)の内つ国。」と
言ったと書かれている。
 香春町鏡山にある神功皇后の伝承の地「鏡乃池」の少し奥に「玉垣様」という小さな石祠がある。
 香春岳が、三輪山であり、そこに大物主の神が祀られていた。その香春岳の直ぐ近くの鏡山に「玉垣様」が
祀られている。これは大物主であった。

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
綏靖天皇
 倭国大いに乱れ、歴年(146~
189)主無し
手研耳命(たぎしみみのみこと) 暗殺さる
136年春3月 
「神日本磐余彦天皇崩ず。
 時に神渟名川耳尊、特に心を喪葬
 の事に留む。
 其の庶兄(いろね) 手研耳命、行年(すで)()
 て、久しく朝機を()たり」。
139年 
「(手研耳命、)(ふたり)の弟を害せむ
 ことを図る。時に、太歳(おおとし) 己卯(つちのとう)」。

 

倭国大乱時の「冢」か
Google Earth「香春町宮原」

宮原遺跡

 倭国大乱の時代に前方後円墳が造られたのでないだろうか。

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇
174年、祟神天皇即位。
178年、「国内に疫病が多く、民の
  大半が死亡する
。」
179年、「人民が流浪し、ある者は
  反乱した

  天皇は天照大神・倭大国魂(やまとおおくにたま)(=(おお)
  物主神(ものぬしのかみ))、二神を、宮殿内に共に
  祭り、(あまつかみ) (くにつかみ)に罪を請うた。」
180年春、「時に大物主神が神明(あまてらす)
  (やまと)迹迹日(ととび)百襲(ももそ)姫命(ひめのみこと)
に憑いて、我
  を祭らば国は治まるであろうと告
  げた。神の教えのとおりに祭った
  が霊験はなかった。」

 倭迹迹日百襲姫命が、わが国の古事記・日本書紀においてこの女性が卑弥呼であると通説にもある。それで良いと思う。
 大物主の妻であるということは、合わない。
 倭迹迹日百襲姫命は、巫女である。巫女が岸倭人伝に書かれた女王となっている。

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇
180年秋、「天下に布告し、大田(おおた)田根子(たねこ)
  を求めると茅渟県(ちぬのあがた)陶邑(すえのむら)宗像市須恵
  に彼を捜し当て、11月に大物主神を
  祭らせた

  すると、疫病が初めて終息し、国内が
  次第に静まり、五穀がみのり、人民が
  賑わった
。」
 この神酒(みき)は わが神酒ならず
 (やまと)成す 大物主
 ()みし神酒 幾久 幾久
183年武埴安彦(たけはにやすびこ)の乱。
184年、四道将軍が、戎夷(ひな)を平定。
霊帝の光和(178~184)中、
  倭国乱相攻伐歴年

 「この神酒(みき)は わが神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久 幾久」のこの歌は、
卑弥呼が詠んだ可能性がある。
 卑弥呼(=倭迹迹日百襲姫命は大物主を祀ったのである。魏志倭人伝で鬼道と書いている。先祖を祀った。卑弥呼は、
神武天皇の家系ではなく、大物主の家系だった可能性がある。
 英彦山の4番目の神の家系を継いでいるから大物主を祀る。その卑弥呼がこの倭の国を治めた。だから、邪馬台(やまと)
国=田川説を取っている。奈良県ではない。

※(追記) 令和元年十一月二日(土)改訂版 鷹羽の神々 ---倭成す大物主--- より

 神武天皇の後の崇神天皇の頃、倭国大乱が収まった時の言祝ぎの歌に「倭成す大物主」が歌われている。何故、大物主が
倭国を造っているのか?
 伊邪那岐じゃない。神武天皇でもない。そのもっともっと前に大物主が倭国を造っている。しかし、古事記には、大国主が
国造りをしたとしか書れていない。古事記、日本書紀の国生みの中心は、伊邪那岐と伊邪那美である。
 この「倭成す大物主」は、何だろうか?その大物主の醸(みし神酒が、豊神酒なんです。後の神功皇后が、豊国を侵略して
きた時にも豊神酒という言葉が出てくる。
 大物主以来の倭国を次々に新しい王権が奪い取って、年がら年じゅう大物主を祀るという行為が繰り返されている。

 

卑弥呼即位から遣魏使
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士
  万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定
  奴国
)および亶州(推定東鯷国)を求
  む」
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
二三三 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。
(新羅本紀一七三)
二三八 景初二年六月、邪馬臺國の女王(に
  して神武の後継者たる)卑弥呼、魏の
  方郡
に大夫難升米等を遣はす。
(魏志)
二四〇 魏使邪馬台国に至る
  正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等
  奉詔書印綬詣倭國

 

卑弥呼 安田靫彦画
 邪馬台国を九州にみたてて、背景に火山を
描いている。
絵「卑弥呼」
Google Earth「赤村大原」

<赤村大原>

 安田靫彦氏の描いた卑弥呼。背景は、火山が描かれている。この画家は、邪馬台国近畿説を採っていない。
豊後に行けば火山だらけである。豊国は、豊後も含まれる。

 

卑弥呼も豊国の織姫
 箸墓の由来はこうだ。
 倭迹迹日百襲姫命が大物主神の妻
なった。神は昼に現れないで夜だけ来
た。倭迹迹日姫は翌朝に神の麗しい姿
を見たいと言った。
 大神は翌朝姫の櫛箱(くしばこ)に入って居よう。
私の姿に驚いてはならないと答えた。
翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がい
た。姫は驚き叫んだ。
 大神はたちまちに人の姿となって妻
に言った。「お前は私に恥をかかせた。
私はお前に恥をかかせてやる。」と。
 神は空に上り三輪山(香春岳)に帰
った。姫は仰ぎ見て後悔し、ドスンと
座った。すると箸に陰部をついて死ん
。そこで大市に葬った。
 時の人はその墓を名付けて、箸墓と
いった。

 箸墓の由来の中に「麗しい小さな蛇」が書かれている。大物主は、蛇神である。八俣遠呂智と同じく大物主も
八幡神かも知れない。

 

卑弥呼の都と墓 (田川郡)
女王国
吉野ヶ里以上の環濠集落
香春から遠くない位置
卑弥呼の墓
『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」
直径百余歩=一四〇m~一五〇m
※ 神武の橿原宮(香春町高野)と畝傍
 東北陵(おほきんさん)のように
 かなり近い。
※ 田川郡内に発見されれば、福永説が
 確定する。

 

謎の巨大前方後円型地形
 この古墳の真北に大物主神の坐していた
三輪山(香春岳)がある。
Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」

 この古墳の真北に大物主神が坐していた三輪山(香春岳)がある。この古墳は、香春岳を向いている。大物主に
向かってこの墓は造られている。

 

謎の巨大前方後円型地形
 弥生時代~平安時代の土器片
「赤村内田の前方後円型地形から出土した土器片」

 ここから出土している土器片。 これを熊本県菊池の久米八幡宮の宮司である吉田正一さん(熊本県で発掘に
携わっている)が、弥生時代から平安時代の土器片である。と言われた。
 平安時代までこの土地の人々は、卑弥呼の墓だとしっていたのかも知れない。