「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 鷹羽の神々の盛衰に見る「王朝交替」
  第15回古代史講座 古代田川を解き明かす
 (令和2年2月23日(日)、主催:田川広域観光協会古代史研究会、於:OTOレインボ―ホ―ル)より

 鷹羽の神々の盛衰に見る「王朝交替」

■ 景行天皇・日本武尊 ~ 神功皇后 ~ 継体天皇へ

● 狗奴国王卑弥弓呼が景行天皇であり、景行天皇は草薙剣を一度も佩いていない

・・・ 狗奴国王の卑弥弓呼が、景行天皇である。景行天皇は倭国の天皇では無く、狗奴国の人物となると
   卑弥弓呼しかいない。

狗奴国王卑弥弓呼の逆襲
 勝ちに乗じた狗奴国王卑弥弓呼はついに豊国を
攻めた。
 唯有 殘賊者 、一曰 鼻垂 、妄假 
名號 、山谷響聚、屯 結於菟狹川上 。
二曰 耳垂 、殘賊貪婪、屢略 人民 、
是居 於御木川上 。三曰 麻剥 、潛
聚 徒黨 、居 於高羽川上 。四曰 
土折・猪折 、隱 住於緑野川上 、獨
恃 山川之險 、以多掠 人民 。
(日本書紀 景行紀

 景行天皇云々。九月移 陣于吾勝山 、
以征 田河之残賊 。々乗 風雨 、夜
襲 皇軍 。皇軍追撃、盡誅滅焉。天皇
大喜云々。良哉、此國土地沃壌、百姓殷
富、宜 自今號 此國 謂 鷹羽 也
矣。蓋因 鷹之靈異 也云々。

(我鹿八幡神社古縁起)

 

・・・ 三種の神器の中心は、草薙の剣であり天皇の御位(みくらい)を象徴する。その草薙の剣を佩いていたのは、
   日本武尊であって、景行天皇ではない。古事記・日本書紀や播磨国風土記を読んでも景行天皇は、1回も
   草薙剣を佩いていない。
    倭(やまと)国の天皇は、日本武尊である。鞍手の人物、魏志倭人伝にある伊都国の人物である。鞍手町
   中山にある  八剱神社 の社伝には、後の天智天皇の時代になるが、「新羅の沙門道行が草薙剣を盗みて、
   新羅に逃げ帰る途中に雨風に遭い、そこに草薙剣を置いて帰った
」とあり、八剱神社は暫らくの間、奉納
   されていた。このような伝承が残っている。草薙剣は、筑豊の土地にあつた三種の神器である。

    日本武尊の子が、香春町の仲哀峠の名を残す仲哀天皇である。子が天皇であるから、景行天皇でなく一時期、
   日本武尊が天皇であったと疑いを持っている。
    結果として、日本武尊は敗れている。敗れた日本武尊は、  古宮八幡宮 の隣にある白鳥神社の下に眠っている
   と推測している。

    日本武尊が敗れた理由は、卑弥呼の国(田川)からは骨鏃・鉄鏃が出土されるが、それに対して、熊本県菊
   池川流域からは、田川より圧倒的に多く鉄鏃が出土している。その鉄鏃の差により敗れた。
    鉄鏃の出土数から弓矢戦に敗れたことが見えてくる。

    和睦が行われたのか、「其(正始)八年、卑弥呼の宗女臺與、年十三なるものを立てて王と為す。国中遂に
   定まる
」と魏志倭人伝にある。

狗奴国王卑弥弓呼の逆襲
 景行天皇と日本武尊は敵同士だった。草薙剣を
佩いた日本武尊が敗れ、景行天皇(卑弥弓呼)が
勝利した。
 だが、景行天皇は鷹羽の神を敬い、「鷹羽國」
とまで名付けた。
 魏志倭人伝によれば、「其(正始)八年、
卑弥呼の宗女臺與、年十三なるものを立てて
王と為す。国中遂に定まる
」とある。
 鷹羽國には国難が続いたようだ。
写真「古宮八幡宮、摂社白鳥神社」""
「北九州の主な鉄鏃・胴鏃出土地」

 

● 神功皇后は豊国を攻め落とし、川崎町大海に宮殿を構えた

・・・ 4世紀に丹波・若狭方面から神功皇后が攻めてくる。最後に日本武尊の孫である忍熊王を殲滅する。
   これで、神武天皇以来の邪馬臺国は滅亡する。王朝交替が起きる。

神功皇后の征西
 四世紀後半、遂に東鯷国が挙兵した。すでに饒速日尊
の本流と融合したと推測される東の三角縁神獣鏡圏を形
成する強国が、征西を開始した。
 気比の宮を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を
従え、但馬・播磨の国を南下、瀬戸内海に出る。
 吉備の鬼の城の温羅を滅ぼし、西進する。牛窓でも新
羅の王子を退治し、遂に穴門豊浦宮(下関市幡生の生野
神社)を落し入城。
 邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐が帰順。続いて
伊都県主の祖五十迹手が帰順。
 美奈宜神社や平塚川添遺跡などに拠った羽白熊鷲を
殲滅
 遠賀の地で物部氏を招集し、ニギタ津(鞍手町新北)
を出航
筑紫末羅県(宗像大社・宮地岳神社周辺)の
勝門比売を滅ぼす
 筑後川を渡って紀武内宿祢とともに三潴を攻撃、桜桃
沈輪を滅ぼす。
 豊国に戻り、淡海の大津の宮(旧豊津町)を滅ぼし、
御所ヶ谷(神籠石、旧京都郡、現行橋市)に拠る忍熊王
(日本武尊の孫)を殲滅。邪馬台国滅亡

 

・・・ 卑弥呼の時代の邪馬臺国(田川)を120年後の神功皇后が攻め抜いた。神功皇后が攻めた中心は、
   田川である。田川の地が落とされた。

神功皇后の戦略と魏使の経路
地図「福岡県」

 ① 

 ② 

 ③ 

 ④ 

 ⑤ 

 ⑥ 

 魏使 

 神功 

 穴門(豊浦宮) 
 神功・足仲彦 

 邪馬台 

 御所谷 
 忍熊 

 武庫 

 岡 
 熊鰐 

 末羅 
 勝門姫 

 熟田 

 伊都 
 五十迹手 

 不彌 

 奴 
 (橿日宮) 

 足仲彦 

 層増岐野 
 羽白熊鷹 

 松尾宮 

 

・・・ 神功皇后は、物部氏の兵を集めている。物部氏を大事にされたという事が日本書紀に書かれている。
   大三輪社を建てて、物部氏を集めたとある。
    大三輪社を何処に建てたかを知りたい。朝倉方面に1社あるが、新羅遠征の為の軍船を造った場所は、
   北九州市方面である。
    北九州の何処かに大三輪社がないといけないという考え方である。

神功皇后の征西
 神功は川崎町池尻大海の地に宮殿を構えたらし
い。江戸時代初めまで「帝階八幡神社」があった
との伝承が残っている。
 豊国を神功が治め、筑紫・火国を紀武内宿祢が
「水沼の皇都」(大善寺玉垂宮)を建てて治めた。
 福岡県の東西に二王朝が成立したようだ。
 では、神功皇后は豊国で鷹羽の神を祭ったか。
神功皇后紀に次の一節がある。
 (仲哀天皇九年)秋九月の庚午の朔己卯に、
諸国に令して、船舶を集へて兵甲を練らふ。
時に軍卒集ひ難し。皇后の曰く、「必ず神の
心ならむ」とのたまひて、則ち大三輪社
立てて、刀矛を奉りたまふ。軍衆自づからに
聚る。

 神功は物部氏を招集するべく、大物主神を祭っ
ている。
 大物主神の記述を日本書紀に追求すると、卑弥
呼も神功皇后も結局、豊国(倭国)の女王である
ことが自ずと分かる。

 

・・・ 江戸時代まであったとされる  帝階八幡神社 の由緒である。真ん中の祭神が、天照皇大神の珍しい
   八幡神社である。
    この由緒書きは、川崎町の榊原さんが所有していた文書である。明治時代に書き直しされている。
   この文書の中で一番驚く点は、応神天皇が  宇美八幡宮 で誕生された後、福岡市東区の  香椎宮 で7歳
   まで成長されてから、ショウケ越をされた。これは、わが国で一番新しい情報である。

    今までは日本書紀を読んでいて、乳飲み子の応神天皇を篭にしょってショウケ越をしたと思っていたが、
   4人の大人が担いでいる。この内容は、川崎町史に載っているが、この真意を解き明かそうとはされて
   いない。川崎町に大海(おうみ)という西鉄バスの停留所がある。「大海:たいかい」=帝階である。
    地元の人に確認したのが、今でも鍬とかを入れてはいけないという場所が、1ヶ所だけある。そこに
   鍬なんかを入れたら祟りがあるという。その場所が、神功皇后の宮殿があった中心の場所だと思う。

 

・・・ 宋史・日本国伝には「神功皇后」ではなく「神功天皇」と書かれている。

    和布刈神社(めかりじんじゃ)の社伝では、御祭神は、天照大神の荒魂「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
   (つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)
。別称「瀬織津姫」という月の女神であり、穢れを祓う
   禊の神さま、とある。
    天照大神の荒魂と瀬織津姫は、同じだとあり驚きである。瀬織津姫は、英彦山の中央の女神である。

神功皇后の征西
「和布刈神社社伝」
『宋史』日本国(王年代記)

 

● 継体天皇が、筑紫君磐井を滅ぼした後に出された詔勅の伝統は、現在に引き継がれている

・・・ 神功皇后の王朝は続いていたが、武烈天皇の時に子供がいなかったので、継体天皇が担がれる。
   その継体天皇が、初めて倭に入った時の都が磐余玉穂宮(福智町金田の  稲荷神社 )だと思われる。

   その翌年に継体天皇は筑紫君磐井を急襲する。筑後国風土記逸文求菩提山縁起をみると、筑紫君
   磐井は、八咫烏一族の本拠地に逃れようとした。     

   国の礎を築いた後、継体天皇は、「帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序。」と詔勅を出している。

継体天皇のクーデター
 継体天皇は、即位十九年後の五二六年にして初めて大倭
の磐余玉穂宮
(福智町金田の稲荷神社)に入り、都を定め
た。翌年に筑紫君磐井を急襲し、磐井を斬った。筑後国風
土記逸文によれば、磐井は
 「獨自、豊前の國上膳の縣(築上郡上毛)に遁れて、南
の(犬ヶ岳)の峻しき嶺の曲に終せき。」とある。
 求菩提山縁起によれば、「人皇廿七代繼體(継体)天皇
の御宇、此の縣の國民威奴が(犬ヶ岳)の凶暴なる鬼を懼
る。」とあり、神武以来、飛ぶ鳥の明日香赤村)を領有し
た八咫烏一族が継体天皇の御世に犬ヶ岳の鬼に貶められ滅
ぼされた。継体天皇には鷹羽の神を祭った形跡がある。
 戊辰、詔曰「朕聞、士有當年而不耕者則天下或
受其飢矣、女有當年而不績者天下或受其寒矣、故、
帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序。況厥百寮
曁于萬族、廢棄農績而至殷富者乎。有司、普告天
下令識朕懷。」
 天下が飢え凍えないために男は耕し女は糸を紡がなくて
はならない。
 だから、帝王は自ら耕して農業を勧め、后妃は自ら養蚕
して桑を与える時期を勧めるべきだと、詔を発している。
 五穀豊穣の神たる鷹羽の神を祭ったことは確かであろう。

 

・・・ 上皇陛下と美智子上皇后陛下は、平成の30年間ずーっと宮中で「自ら耕して農業を勧め、后妃は自ら
   養蚕して桑を与える時期を勧める
」事をなさっていらしたでしょう。

    日本書紀の継体天皇紀に書かれている詔勅以来のことである。古事記・日本書紀に書かれている伝統は、
   受け継がれている。だから、天皇家は、豊君でいらっしゃると言い続けている。筑紫君でも火(肥)君でも
   なく豊君でいらっしゃる。天皇家は、豊国に発祥された。

写真「皇后陛下の養蚕」
写真「天皇陛下の稲刈り」

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