「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
鷹羽の神々の盛衰に見る「王朝交替」
■ 景行天皇・日本武尊 ~ 神功皇后 ~ 継体天皇へ
● 狗奴国王卑弥弓呼が景行天皇であり、景行天皇は草薙剣を一度も佩いていない
・・・ 狗奴国王の卑弥弓呼が、景行天皇である。景行天皇は倭国の天皇では無く、狗奴国の人物となると
卑弥弓呼しかいない。
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一
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一
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一
二
一
下
二
一
中
上
二
一
・・・ 三種の神器の中心は、草薙の剣であり天皇の御位(みくらい)を象徴する。その草薙の剣を佩いていたのは、
日本武尊であって、景行天皇ではない。古事記・日本書紀や播磨国風土記を読んでも景行天皇は、1回も
草薙剣を佩いていない。
倭(やまと)国の天皇は、日本武尊である。鞍手の人物、魏志倭人伝にある伊都国の人物である。鞍手町
中山にある 八剱神社 の社伝には、後の天智天皇の時代になるが、「新羅の沙門道行が草薙剣を盗みて、
新羅に逃げ帰る途中に雨風に遭い、そこに草薙剣を置いて帰った」とあり、八剱神社は暫らくの間、奉納
されていた。このような伝承が残っている。草薙剣は、筑豊の土地にあつた三種の神器である。
日本武尊の子が、香春町の仲哀峠の名を残す仲哀天皇である。子が天皇であるから、景行天皇でなく一時期、
日本武尊が天皇であったと疑いを持っている。
結果として、日本武尊は敗れている。敗れた日本武尊は、 古宮八幡宮 の隣にある白鳥神社の下に眠っている
と推測している。
日本武尊が敗れた理由は、卑弥呼の国(田川)からは骨鏃・鉄鏃が出土されるが、それに対して、熊本県菊
池川流域からは、田川より圧倒的に多く鉄鏃が出土している。その鉄鏃の差により敗れた。
鉄鏃の出土数から弓矢戦に敗れたことが見えてくる。
和睦が行われたのか、「其(正始)八年、卑弥呼の宗女臺與、年十三なるものを立てて王と為す。国中遂に
定まる」と魏志倭人伝にある。
● 神功皇后は豊国を攻め落とし、川崎町大海に宮殿を構えた
・・・ 4世紀に丹波・若狭方面から神功皇后が攻めてくる。最後に日本武尊の孫である忍熊王を殲滅する。
これで、神武天皇以来の邪馬臺国は滅亡する。王朝交替が起きる。
①
②
③
④
⑤
⑥
魏使
神功
穴門(豊浦宮)
神功・足仲彦
邪馬台
御所谷
忍熊
武庫
岡
熊鰐
末羅
勝門姫
熟田
伊都
五十迹手
不彌
奴
(橿日宮)
足仲彦
層増岐野
羽白熊鷹
松尾宮
・・・ 神功皇后は、物部氏の兵を集めている。物部氏を大事にされたという事が日本書紀に書かれている。
大三輪社を建てて、物部氏を集めたとある。
大三輪社を何処に建てたかを知りたい。朝倉方面に1社あるが、新羅遠征の為の軍船を造った場所は、
北九州市方面である。
北九州の何処かに大三輪社がないといけないという考え方である。
今までは日本書紀を読んでいて、乳飲み子の応神天皇を篭にしょってショウケ越をしたと思っていたが、
4人の大人が担いでいる。この内容は、川崎町史に載っているが、この真意を解き明かそうとはされて
いない。川崎町に大海(おうみ)という西鉄バスの停留所がある。「大海:たいかい」=帝階である。
地元の人に確認したのが、今でも鍬とかを入れてはいけないという場所が、1ヶ所だけある。そこに
鍬なんかを入れたら祟りがあるという。その場所が、神功皇后の宮殿があった中心の場所だと思う。
・・・ 宋史・日本国伝には「神功皇后」ではなく「神功天皇」と書かれている。
和布刈神社(めかりじんじゃ)の社伝では、御祭神は、天照大神の荒魂「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」。別称「瀬織津姫」という月の女神であり、穢れを祓う
禊の神さま、とある。
天照大神の荒魂と瀬織津姫は、同じだとあり驚きである。瀬織津姫は、英彦山の中央の女神である。
● 継体天皇が、筑紫君磐井を滅ぼした後に出された詔勅の伝統は、現在に引き継がれている
・・・ 神功皇后の王朝は続いていたが、武烈天皇の時に子供がいなかったので、継体天皇が担がれる。
その継体天皇が、初めて倭に入った時の都が磐余玉穂宮(福智町金田の 稲荷神社 )だと思われる。
その翌年に継体天皇は筑紫君磐井を急襲する。筑後国風土記逸文と求菩提山縁起をみると、筑紫君
磐井は、八咫烏一族の本拠地に逃れようとした。
国の礎を築いた後、継体天皇は、「帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序。」と詔勅を出している。
・・・ 上皇陛下と美智子上皇后陛下は、平成の30年間ずーっと宮中で「自ら耕して農業を勧め、后妃は自ら
養蚕して桑を与える時期を勧める」事をなさっていらしたでしょう。
日本書紀の継体天皇紀に書かれている詔勅以来のことである。古事記・日本書紀に書かれている伝統は、
受け継がれている。だから、天皇家は、豊君でいらっしゃると言い続けている。筑紫君でも火(肥)君でも
なく豊君でいらっしゃる。天皇家は、豊国に発祥された。
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