「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 ここにあり 邪馬臺国!
 -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-

※ ここにあり 邪馬臺国!
  -卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
 (令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より

■ 日本武尊は景行天皇から邪馬臺国を防衛する為に
 戦う(倭建命天皇の倭国防衛戦)

 

倭建命天皇倭国防衛戦
 其の國より科野(しなの)の國に越え、乃ち科野の坂の
神を言向けて、尾張の國に還り來て、先の日に
期りし美夜受比賣(みやずひめ)の許に入り坐しき。是に(おお)()
()を獻りし時に、其の美夜受比賣、大御酒盞(おおみさかづき)

捧げて以ちて獻りき。爾くして美夜受比賣、其
意須比(おすひ)(すそ)月經(さわり)著きたり。故、其の月經を
見て御歌に曰く、
 ひさかたの 
の香具山
 とかま
に さ渡る(くひ) (ひは)
(ぼそ) 手弱腕(たわやがいな)を ()
かむとは 吾はす
れど さ寝むとは
 吾は思へど 汝
()せる 意須比
(すそ)に 月たちに
けり

天香山

 日本武尊は、倭国を防衛した。この『古事記』の記事の倭歌の中に「天の香具山」とあるが、これが香春三ノ岳だと常々言っている。
 鞍手の日本武尊は、景行軍を迎え討った。

 

倭建命天皇倭国防衛戦
 故、爾くして御合して、其の御刀(みはかし)草那藝の
を以ちて、其の美夜受比賣の許に置きて、()
服岐能(ふきの)(やま)の神を取りに幸行しき。
(伊吹山の神に敗れる)
 其より幸行して、能煩野(のぼの)に到りし時に國を思
ひて以ちて歌ひて曰く、
 (夜麻)は 國のまほろば たたなづく
 青垣 山ごもれる しうるはし
「夜摩波 區珥能摩倍邏摩 多多儺豆久
 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩之于屢破試」
景行天皇紀十七年)
 また歌ひて曰く、
 命の 全けむ人は 畳薦 平群(へぐり)の山の
 熊樫が葉を 髻華(うず)に挿せ その子
 此の歌は思國歌(くにしのひうた)なり。
『古事記 景行天皇記』

 日本武尊は、伊吹山の神に立ち向かったが、草那藝の劍(神剣)を美夜受比賣の許に置いて出かけて行った。結局、日本武尊は、能煩野(のぼの)で倒れる。
 その時に読んだ倭歌が、

  倭(夜麻登)は 國のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるはし

 同じ倭歌が、『古事記』では「夜麻登」の「登」の字で書かれているが、『日本書紀』の原文では、「夜摩苔」とあり、邪馬台国の「台」の字に「艹」(くさかんむり)の付いている「苔」の文字である。
 この「苔」の字を『日本書紀』では、万葉仮名」で「と」と詠ませている。

 したがって、歴史学者の方に「邪馬台国」を「やまたい国」を言って欲しくない。日本の古典では明らかに「やまと国」である。しかし、奈良県ではない。これが、福永説である。

 

景行天皇
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
 日本武尊胆吹(いぶき)山に到ると、山の神が大蛇(古
事記は「牛のごとき白猪」)に化けて道をふさい
だ。尊は神の使いだろうと高をくくって進んだ。
山の神は雲を起こし、氷雨を降らせた。「峯霧り
谷暗く」なり、尊は行くべき道を失う。強引に下
山したが、尊は初
めて「身を痛め」
た。
 つまり、景行軍
に待ち伏せされ、
鉄鏃(てつぞく)の)矢を(あられ)
のごとく降らされ

尊は初めて敗戦し、
自身も深手を負っ
たようだ。
※ 敵の弾丸
    雨あられ
ちはやふる神=千羽矢降る
写真「足立山」

伊吹山=足立山(霧が岳)

 日本武尊は『日本書紀』では、胆吹山で「氷雨を降らせた」とある。結論であるが、日本武尊は。景行軍に待ち伏せされ、(鉄鏃の)矢を霰(あられ)のごとく降らされて、負傷した。
 「ちはやふる神」というのは、「千羽矢降る神」であろう。怖いですよ。鉄鏃の矢がビューンと山の上から何十本と飛んでくる。

 胆吹山(古事記では、伊服岐能山)は、北九州市小倉区にある足立山だと解った。

 

地図「城野遺跡」
城野遺跡の箱式石棺

九州最大規模の方形周溝墓から出土した幼児の箱式石棺2基。
高価な中国産の水銀朱が惜しげもなく塗られた子どもの石棺。
クニのリーダー(権力者)の子ども(王子)の墓と言われて
います。

 足立山の麓には、卑弥呼の時代と同時代の城野遺跡がある。その遺跡の墓からは、出土した箱式石棺には真っ赤な水銀朱が塗られていた。

 

「和気清麻呂伝説」
「和気清麻呂伝説」
写真「葛原八幡神社」

葛原八幡

 また、足立山の麓にある葛原八幡には、和気清麻呂伝説が残されている。そこに白猪が足を傷つけられた和気清麻呂を助けた。そして、その足が直ったから足立山と名付けたという伝承である。
 だから、この伝説の陰に日本武尊が居たと気が付いた。

 

「和気清麻呂伝説」
「和気清麻呂伝説」
「和気清麻呂伝説」

 

「和気清麻呂伝説」
「和気清麻呂伝説」
「和気清麻呂伝説」

 

清水原
  居醒泉(ゐさめがゐ)
写真「清水原」
絵「ヤマトタケル・白猪」

Ⓒ建部大社

 伊吹山は、北九州にあった。『日本書紀』にある胆吹山(古事記では、伊服岐能山)は、近畿の滋賀県ではない。日本武尊が足を浸した我に返った居醒泉(ゐさめがゐ)という泉は、葛原八幡から足立山へ500m登った所の清水原である。今も水が湧いている。

 

ヤマトタケルと白鳥伝説
 さらに歩き続けたヤマトタケルは疲れて杖をついて
歩いたのでそこを「杖つき坂」といい、またある村に
着くと疲れた足が「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」と
嘆いた事から「三重(みえ)」というようになりました。ヤマ
トタケルはどんどん体調が悪くなり、大和への望郷の
思いが募っていきます。
 そしてヤマトタケルは国しのびの歌を詠みます。
大和(やまと)は国のまほろばたたなづく青垣(あおがき)山隠(やまごも)れるやまと
しうるはし
」。
 ついに愛した妻を懐かしみながら、力尽き倒れてし
まいました。死の知らせを聞いた妻や子供たちは、伊
勢の能褒野(のぼの)(=三重県鈴鹿郡)に駆け付けました。
 するとその御陵(墓)か
ら白い大きな鳥が天空高く
飛び立っていきました。
 ヤマトタケルは白鳥とな
って恋しい国へ帰って行っ
のです。その白鳥が飛ん
で留まった河内(かわち)の国の志紀(しき)
に御陵を作り、「白鳥(しらとり)(みさ)
(さぎ)
」と呼ぶようになりまし
た。
絵「ヤマトタケル・白鳥伝説」

Ⓒ建部大社

 足を傷つけられた日本武尊は、最終的には能褒野(のぼの)で亡くなるが、死の直前に足が「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」と嘆く。

 亡くなって、能褒野に葬られたがその陵から白鳥と化し、抜け出して故郷へ帰って行った。その陵を白鳥の御陵と呼ぶようになった。

 

能褒野上野
「上野村史」によれば、
もとは「のぼりの」と
呼ばれ、福智山山頂に
「小碓命の小祠」があ
、と記す。
「福智山登山ルート図」
「福智山山頂」

Ⓒnodapyon

 能褒野(のぼの)の場所が見つかった。福智町の上野(あがの)である。『上野(あがの)村史』によれば、元は「のぼりの」といったとあるから、ここが「のぼの」である。
 そして、福智山山頂に「小碓命(日本武尊の別名)の小さな祠(ほこら)」があると記されている。

 

三重のまがり/古宮八幡宮の神幸祭り
 古宮八幡宮の祭神豊比売命は、香春神社へ下向し、
例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻るという祭り。
 初日の午前中、唐櫃を持って長光家を経て神事を
行い、秘密のおまがり様を唐櫃に納めて古宮に持ち
帰る。
 午後から杉神輿を担いで天矢大神宮(天照大神)
まで行き神事を行い、御旅所に一泊する。
 2日目の午後、清祀殿宮原で神事を行い、古宮
八幡神社
へ戻り、
行事が終了する。
 神幸祭りには、
必ず長光家でつ
くったおまがり
を迎えにいく。
 江戸時代、
春宮
への行幸の
時もおまがり様
という龍頭の餅
を献じていたと
古宮八幡宮
鎮座伝記』に記
されている。
古宮八幡宮(香春町)

 古宮八幡宮 摂社に白鳥神社 

 「三重のまがり」については、香春町にある古宮八幡という摂社に白鳥神社がある神社の神幸祭りの時に長光家が「おまがり様」という餅を作る。
 その「おまがり様」を唐櫃に納めて古宮に持ち帰ってから神幸祭りが始まる。祭りが終われば、長光家に「おまがり様」を返すそうである。

 『古宮八幡宮御鎮座伝記』には江戸時代、おまがり様という龍頭の餅を献じていたと記されている。また、我鹿八幡の古い縁起にもおまがり様が残されていた。滋賀県には、このおまがり様の記録はない。

 

倭建命天皇倭国防衛戦
白鳥神社田川市)社伝
 延暦年中(七八二年~八〇六年)、伝教大師
澄】が入唐し学行を終えて帰朝の途中、海
中の船路先に白鳥が飛び、ある夜大師の夢の中
白鳥が現れ「自分は日本武尊である。汝の船
路を守り、身を守護するから昔 麻剥を討つため
に行った豊前国の羽川の川辺
に自分を齋き祀
れ」と告げた
といいます。
 大師は帰朝
後、羽川
川辺を尋ねた
所、白鳥が飛
来し、伊田の
(現:田川
伊田とその
付近)の真中
の山に止まり
ました。
写真「白鳥神社」

白鳥神社田川伊田

 ここ田川市伊田の白鳥神社の地が、日本武尊が白鳥と化して飛んで行った先の一つ、第二の白鳥陵という事になる。
 この白鳥神社を建てたのが、最澄である。社伝の中に「昔 麻剥を討つために行った豊前国の高羽川の川辺に自分を齋き祀れ」とある。

 猪膝の伝承にあった猪折ではなく、高羽川の麻剥である。

 

倭建命天皇倭国防衛戦
 故、其の國より飛び翔けり行きて、河内
の國の志幾(しき)
に留りき。故、其の地に御陵を
作りて鎭め坐すなり。即ち其の御陵を號け
白鳥の御陵と謂ふなり。
 然れどもまた其の地より更に天に翔けり
て以ちて飛び行きき。
※ 思國歌は、古事記では倭建命、日本書紀では
 大足彦忍代別天皇の歌となっている。
  ここに、景行天皇(卑弥弓呼)は狗奴(肥後)
 国からの侵略者
であり、倭国(豊前国)を防
 衛したのが倭建命天皇
であったことが推測さ
 れる。
  景行天皇の北伐は半ば成功したのかも知れな
 い。
白鳥の御陵の三基目は鞍手町の古物神社の辺
 りにあったことが仁徳紀に記されている。

 景行天皇は、狗奴国から侵略者と考えている。

 

鎧塚古墳図(鞍手町)

鎧塚古墳(鞍手町)

古墳1号墳 推定:白鳥陵

Ⓒ鞍手町教育委員会

「鎧塚古墳 1号墳」

 3基目の白鳥陵が、鞍手町にある鎧塚古墳である。この鎧塚古墳1号墳には、日本武尊の鎧だけが埋められている。

 

は 国の真秀 畳な付く
  青垣 山隠れる し愛はし
 卑弥呼日本武尊狗奴国の圧倒的な「鉄鏃の
千羽矢降る戦術
」の前に敗れ去った。
 弥生の鉄鏃の物語了。
上空からの写真「遠賀川下流域」

 

臺與の遣晋使 生口とは何か
 梁書倭伝は、内実は魏志倭人伝、魏略、後
漢書、宋書(倭の五王)、隋書の記述と、隋
・唐代に新たに入った資料を整理したもので
ある。
 梁書は、貞観三年(六二九)に唐の太宗の
命を受けて編纂し、貞観十年(六三六)すべ
てが完成した。
 其南有侏儒国 人長三四尺 又南黒齒
國裸國
 去倭四千餘里 船行可一年至 
又西南萬里有海人 身黒眼白裸而醜 其
肉羙 行者或射而食之
 その南に侏儒国がある。人の背丈は三、四
尺。また、南に黒歯国、裸国がある。倭を去
ること四千余里、船で行くこと一年ほどで着
く。
 また西南万里に海人がいて、身体は黒く、
眼は白く、裸でみにくいが、その肉はうまい。
旅行者は射たりしてこれを食べる。
 海士、海人、漁夫

 卑弥呼も日本武尊も狗奴国の圧倒的な「鉄鏃の千羽矢降る戦術」の前に敗れ去った。その後、狗奴国が実権を持つ。臺與は、邪馬臺国の飾りの女王である。
 その臺與が、晋に遣いを出した時に生口30人を献上したとある。その生口を食肉用奴隷と言ったが、実は記録が残っている。
 『梁書』倭伝である。記録は、『魏志倭人伝』を受け継ぐが、その記事の内容である。倭人も人肉を食べていた。中国の皇帝も人肉が好きだから献上したのである。
 何事も根拠無しに言っているのではない。