「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ ここにあり 邪馬臺国!
-卑弥呼が祭った鷹羽の神々、始まりは『ひこ山』から-
(令和二年一一月一日(日)、主催 田川広域観光協会、於 田川文化センター大ホール)より
■ 景行天皇(狗奴国王卑弥弓呼)、鷹羽國へ攻め込む
(大足彦忍代別天皇の豊国北伐)
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『魏志倭人伝』に卑弥呼の死後、また乱が起こったと書かれている。狗奴国王の卑弥弓呼が再び豊国へ攻め込んできた。
それが、『日本書紀』景行紀に書かれている。最初に倒した相手が、菟狹川上の鼻垂であるが、菟狹と言えば、第二次神武東征の時に入った一柱騰宮があった土地(安心院妻垣神社)である。
菟狭津彦・菟狭津媛の子孫は、どうなったのか? この景行紀で、鼻垂は、熊襲とされていて、景行天皇の敵である。神武天皇を支援した土地が、賊に変わっている。王朝交替が、激しい。
次が、御木川上の耳垂。高羽川上の麻剥とあり、書き換えが漏れて「高羽」とある。「田」、「川」の田川と書かれていない。元は「鷹羽」である。それを『日本書紀』は、天武天皇の命令で「鷹」の字は、書き換えられた。
次の土折・猪折は、田川の伝承にも出てくる。
田川の伝承である『我鹿八幡神社古縁起』に景行天皇は、田河の残賊を征伐したとあるが、その国を「鷹羽國」と言ったとある。
その「鷹之靈異」について抜き出した。
狗奴国王の卑弥弓呼は景行天皇であり、日本武尊は敵同士だった。『日本書紀』に書かれているように親子ではなかった。日本武尊は、三種の神器の剣である草薙剣を佩いているが、景行天皇は草薙剣を佩いてない。
何故、ここに気が付かないのか? 『日本書紀』を正確に読めば解る。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の宗女臺與がたつが、その間の経緯を見ていくと主人公は、日本武尊のようである。
絵は、日本武尊は女装して、川上梟帥を殺す場面、草薙剣を振るっている場面、叔母の倭姫命である。
田川市猪膝にある大刀洗の井戸は、日本武尊が猪折を切った太刀を洗ったという伝承である。田川の伝承はおかしい。『日本書紀』では、景行天皇が猪折を征伐したと書かれている。
何故、同じ田川の熊襲、猪折を倒した相手が入れ替わるのか? これで、田川の伝承のスゴサが解る。
女装した日本武尊が、川上梟帥の胸を劒で刺す場面の記事であるが、劔で刺されて殺さる側の川上梟帥が、刺す側の日本童男に向かって、「これから後、日本武皇子を名乗りなさい」という。
名乗り。号を授けるというのは、上位の者が、下位の者に与えるという行為である。何故、倒される川上梟帥が、倒す側の日本童男に向かって、「日本武皇子」と名乗れと言うのか?
この記事の話もおかしい。このことから、スライドに「二人の日本武尊」という新説のタイトルに書いた。
田川の日本武尊と鞍手の日本武尊というように考えるしかなかった。『日本書紀』に載っている川上梟帥が、田川の日本武尊であった。
つまり、卑弥呼が死んだ後の直ぐの男王だったとして、その男王を倒しにきたのが、鞍手の日本武尊と考えると話が解りやすい。鞍手の日本童男に敗れたのである。
その鞍手の日本武尊の子や孫については、上記の『鞍手町史』に書かれている通りである。
鞍手の日本武尊は、鞍手町中山の剣岳に居た。『魏志倭人伝』の中の伊都国王、一大率と考えている。田川の日本武尊がナンバーワンで、鞍手の日本武尊はナンバーツーということは、一大率であった。
ナンバーツーの日本武尊が、ナンバーワンの日本武尊を倒した。
したがって、日本武尊が川上梟帥を倒しているのであれば、日本武尊は景行天皇に奪われた田川の失地を回復したのではないかと『新説 日本書紀』で書いた。
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景行天皇が、狗奴国王の卑弥弓呼だとして、征伐していった場所が『日本書紀』に書かれている。それを次の地図で辿る。
この地図に示した通り景行天皇は北伐をしている。奈良県から豊国を征伐に来たのではない。菊池・山鹿方面から日田を通って、豊国を北に向かって征伐している。
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次に豐前國長峽縣に到るとあり、ここの「京」の起こりが書かれている。この豐前國長峽縣は、行橋市長峡である。
來田見邑は、小倉南区朽網。海石榴市は、行橋市椿市。血田は、小倉南区津田。禰疑山は、小倉南区貫山である。それを次の地図で辿る。
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帝踏石
次に柏峽大野という所で、大きな石を蹴ったら柏の葉のように舞ったので、その石を名付けて、蹈石というとある。
その蹈石は、北九州市小倉南区朽網西二―二八にある帝踏石である。このような大きな石が、蹴って舞いますかね。勿論、神格化された話である。