「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 伊都(いつ)国の歴史

※  伊都(いつ)国の歴史
(令和5年11月26日(日) 田川広域観光協会  第29回古代史講座 於:福岡県立大学)

(3)成務天皇は、伊都国(近淡海=古遠賀湾沿岸)にいた天皇

 『成務天皇記』にある近江は、古遠賀湾の事である。原文に「近淡海」とあるので、滋賀県の琵琶湖では無い。古遠賀湾では、直方市の天神橋貝塚からマッコウクジラの歯の装飾品が出土しているように鯨が捕れた。
 成務天皇は、古遠賀湾の近く志賀高穴穂宮で国を治められ、国土復興に務められた。それで、国々の境界と、大小の県の県主を定められた。
 下記の古事記原文の数行が成務天皇の全文であるが、『鞍手郡誌』には、「成務天皇郡縣制度と鞍手郡の貴族」について詳しく書かれている。

『古事記』  成務天皇記
 若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)は、近江(おうみ)志賀(しが)高穴穂宮(たかあなほのみや)で天下を治めた。
 この天皇が、穂積臣(ほづみのおみ)等の祖先である、建忍山(たけおしやま)垂根(たりね)の娘の弟財郎女(おとたからのいらつめ)を 妻としてお生みになった御子が和訶奴気(わかぬけ)王である。一柱。
 そして、建内宿禰(たけしうちのすくね)を大臣として、大小の国々の国造を定め、また、 国々の境界と、大小の(あがた)県主(あがたぬし)を定めた。
 天皇の年齢は九十五歳である。乙卯の年(二九五年・三五五年)の 三月十五日に崩御した。
 御陵(みはか)狭城(さき)盾列(たてなみ)にある。
 若帶日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穗宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖建忍山垂根之女、名弟財郎女、生御子、和訶奴氣王。一柱。故、建內宿禰爲大臣、定賜大國小國之國造、亦定賜國國之堺、及大縣小縣之縣主也。天皇御年、玖拾伍歲。乙卯年三月十五日崩也。御陵在沙紀之多他那美也。
『鞍手郡誌』 ( ・ ページ)

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 に、成務天皇郡縣制度と鞍手郡の貴族
 成務天皇の朝に及び、熊襲(すで)に平らぎ、帝權(ていけん)の伸張と共に、酋長の分權時代より、急轉(きゅうてん)直下して貴族分權時代を現出し、國郡に造󠄁長を立て、縣邑に稻置(いなき)を置き、則ち山河を隔て、國縣を分ち、(せん)(ぱく)に随ひて邑里を定むるの制を立て、諸皇子及び在朝有爲の貴族を國郡大小の官に封じ給ふに(あた)り、筑紫國造󠄁には、孝元天皇の皇子大彥命五世の孫田道命(たぢのみこと)を封じ給ふ。然るに、西陲(せいすい)の地に在ては、それ等の實現(じつげん)遲延(ちえん)を免かれざりしと(いへど)も、尚且つ山勢水脈を基準とし、民烟(みんえん)交通を考量して一部の境界を査定せられ、鞍手地方には、田道命の一族たる、物部印岐美(いきみ)ノ連を封せしものならん()和名抄(わみょうしょう)の所謂生見(いなみ)郷は、郡の中央宮田村の内生見 和名抄に伊無美と同じ土俗はぬくみと云ふ なるべく、生見は其の舊壚(きゅうろ)にして、即ち人名の地名に移りしものなるべし。今田 道命と印岐美ノ連の姻族的関係を掲ぐれば左の如し。

*1

*2

*3

*1

 阡陌(せんぱく):「阡」は南北に、「陌」は東西に通じる道。南北の道路と東西の道路。縦横の道路。また、縦横に道路の交錯する所。ちまた。

*2

 西陲(せいすい):西のはて。西辺。

*3

 舊壚(きゅうろ):昔、住んでいた庵。また、古くから住んでいる家。

『鞍手郡誌』 ( ・ ページ)

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        ┌-大綜杵命(おおへそきのみこと)・・・物部十市根(とおちね)連・・・印岐美(いきみ)
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〇饒速日命・・・├-欝色繼命(孝元皇后)
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        └-孝元天皇・・・大彥命・・・田道命(たぢのみこと)
                       

(七世)

(孫)

(成務朝ノ人)

(五世〇成務朝ノ人)

 孝元皇后:日本書紀/先代旧事本紀では、欝色謎命(うつしこめのみこと)とある。
この『鞍手郡誌』にしか出てこない欝色繼命も「うつしこめのみこと」と読むのか?

『鞍手郡誌』 ( ・ ページ)

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 即ち、印岐美連の入封と共に、此の地に屯田したるは其族十市物部 十市物部の本據地(ほんきょち)は大和にして、磯城(しき)縣主より出てたる部曲にて、孝元天皇の皇妃と姻族関係あり、其部曲居地は大和、美濃、伊勢、筑後等にありて各十市の名を存せるなり にして、和名抄に所謂鞍手郡十市郷の地なり。
 此時代に於ける郡邑の境界線に付ては、文献の(しる)すべきものなしと(いへど)も、山河阡陌(せんぱく)の形勢を基準として推定すれば、(けだし)し左の如き區域(くいき)なりしならん()
東方  福智山彙(さんい)を限る

*4

福智山鳥野神社傳に瑞光石云云成務帝五年秋九月云云此時以此石筑豊之境然兩州民爭論此石而更無分別故兩州剌史禱此神其非夕有託告此石自東西拾似斧割爾改名曰國割石今尙在蜂頂云云而して、南端は後世の境鄕を限りしならん

*4

 山彙(さんい):山系や山脈をなすことなく、孤立している山の集まり。山群。

『鞍手郡誌』 ( ・ ページ)

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日本武尊此の山に登り、熊襲の國を瞰望(かんぼう)せしより、別に國見山と謂ひ、その岩を國見岩或は小碓(おうす)岩と云ふ、又神鈴を發見せし岩を瑞光石と言ふ。

*5

西方  犬鳴山彙(さんい)を限る
犬鳴山は、稻置山の訛轉(かてん)にて、地方の稻置職物部印岐美連以來、歷世傳家の領有 山たるを傳へたる稱にて、南方鉾立山の名は國造田道命が、天賜の鉾を建てゝ隣 郡との境域を標示せし遺稱なるべし。

*6

南方  笠木山以東の低地帶を限る
穂波川・彥山川等の沿岸地帶は、當時海潮深く遡入して、民居に堪る所少く、随って笠木山の山地以外の低地は、沼澤點綴(てんてい)して截然(せつぜん)たる境界は無りしならん。

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*8

*5

 瞰望(かんぼう):遠く見る。

*6

 訛轉(轉訛(てんか)):そのように変わった語。

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 點綴(てんてい):物がほどよく散らばっていること。

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 截然(せつぜん):物事の区別がはっきりしているさま。

『鞍手郡誌』 ( ・ ページ)

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北方  猿田峠以東の低地帶を限る
澎湃(ほうはい)たる崗湊の潮汐の間に兀然(こつぜん)たる海嶋洲渚に過ぎざる地方なるを以て、人烟疎薄の爲め、境界定りなく、遠賀郡淺木村・底井野村方面と相錯綜して、其一部は崗縣主家の領邑に屬せしもの有りしならん。

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鞍手郡絵図(鞍手郡誌)

『鞍手郡誌』鞍手郡の絵図」

(東方)

「東方:福智山」

(西方)

「西方:犬鳴山」

(南方)

「南方:笠木山」

(北方)
猿田峠 

(北方)猿田峠:主要地方道直方―宗像線の宗像市吉留と鞍手郡鞍手町永谷を結ぶ峠。

*9

 澎湃(ほうはい):水がみなぎって逆巻くさま。

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 兀然(こつぜん):高く突き出ているさまのこと。

 『鞍手郡誌』に成務天皇が定めた国境が書かれている。したがって、成務天皇は、鞍手郡にいて国境を定めた事になる。
 成務天皇が政治を行られたのが、直方市頓野にある近津神社ではないか? ここが、志賀高穴穂宮跡かもしれない。
 この神社が、近津神社という名であるから、近江(近つ淡海)は、古遠賀湾の事だと解った。それでは、遠江(遠つ淡海)は何処か? それは、行橋市に嘗てあった入り江だろうとなった。そのように考えている。

近津神社(直方市頓野)
※  成務天皇の「志賀高穴穂宮」跡か
「近津神社(直方市頓野)」