倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


 豊の国万葉集⑨ 「山部赤人」
(令和5年5月18日 於:小倉城庭園研修室)

 「 山部赤人は鞍手にいた⁉  」の動画の内容を掲載したページです。

 「万葉集」巻第三 雑歌 322番・323番 (赤人も宮若市千石峡へ来ていた)

 山部赤人熟田津(にきたつ)」の歌を詠んでいるが、『万葉集』巻第1・8番歌が福永説では、神功皇后が宗像の勝門媛の討伐に鞍手町の新北津を船出する時に詠まれた歌(神功皇后が出陣する時に(げき)を飛ばした歌)だと紹介している。

 8番歌にある「熟田津(にきたつ)」は、現在の鞍手町新北(にぎた)の所でかつては古遠賀湾が入り込んでいて、良港の津であった。また、この8番歌は、神功皇后の時代(4世紀)の出来事が詠まれた歌であるから、赤人が詠んだ時代より古い時代の歌という事になる。

 それから、山部赤人のページで紹介した「山辺の道」(直方市山部)は、鞍手町新北より少し南に位置する所にある。

 下記に示す『万葉集』巻3にある山部赤人の「熟田津(にきたつ)歌」は、「伊豫の温泉」に行った時に作った歌で、322番が長歌である。

 「熟田津(にきたつ)歌」 別の一首
 山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首 并短歌
 皇神祖之 神乃御言乃 敷座 國之 盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣國跡 極此疑 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 歌思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸處

322

 すめろきの 神の(みこと)の 敷きませる 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宣しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭(いさには)の 岡に立たして 歌(しの)辞思(ことしの)はしし み湯の上の 木群(こむら)を見れば (しん)の木()ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に (かむ)さびゆかむ (いでま)しところ 
 神たる天皇がお治めになっている国のどこにも温泉は多くあるけれど、島や山の美しい国、険しい伊予(鞍手郡)の高嶺にあるような温泉は滅多にない。その裏手の射狭庭の岡に立たれて歌を練られ、言葉を案じられた。

 歌にある「臣木」は、通説では「(おみ)の木」と読ませているが、ここでは「(しん)の木」と読ませる。

 「熟田津(にきたつ)歌」 別の一首
 この温泉の上の木の群れを見ると、臣下のように林立して生い茂っている。鳥の鳴く声も相変わらず聞こえ、この先もずっと神々しくなってゆくことだろう。幸ましになったここ伊予の石湯は。
 反歌
 百式紀乃 大宮人之 飽田津尒 船 乗将為 年之不知久

323

 ももしきの 大宮人の 熟田津に 船乗りしけむ 年の知らなく
 かつて、大宮人たちが船乗りした という、その熟田津にいるが、船 乗りしたのはいつの年のことなのだろう。
「古遠賀湾図」

新北

 歌の題詞に「伊豫の温泉」の歌とあるが、332歌を口語訳した中の「島や山の美しい国」という情景は、現在の愛媛県松山市の道後温泉にはちょっと当てはまらない。
 「険しい伊予の高嶺」と訳した場所を「鞍手郡」とした。また、「臣下のように林立」は、「椎の木が林立」と訳す。
 そして、訳の最後にある「伊予の石湯」の場所は、宮若市の千石峡だと考えている。

 反歌の323番歌では「田津」とあり、「」が「」に変わっているが、8番歌の神功皇后と関わりがある。
 この歌にある「大宮人」は、神功皇后を指している。その神功皇后が船出をした熟田津に赤人は今来ているか、または、長歌の場所の千石峡に居て、そこから下った熟田津の所を想い詠ったかも知れないが、8世紀の赤人には神功皇后が船出をした年(4世紀の出来事)が何時の年代の事が良く分からないと詠んでいる。
 そして、赤人には神功皇后が戦に出かける歌だという認識も無かったようであり、「大宮人たちが船乗りした」というのは、船遊びのような感じで戦に出るというような緊迫感が無い歌である。