倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
               記紀万葉研究家  福永晋三

    

 豊の国万葉集③ 山上憶良
(令和4年11月23日 於:小倉城庭園研修室)

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 「万葉集」巻第五 794〜799番  (天智天皇の「日本国」が滅んだという歌か)

 「日本」という国が誕生したのは、天智天皇の御世である。以下が他のページで紹介済の内容である。

日本国の建国 → 壬申の大乱

天智天皇九年(670年)  春二月に、戸籍を造る。

 庚午年籍。唐の冊封下に入る

 倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。

(『三国史記』新羅本紀文武王十年十二月)

天智天皇十年(671年)  九月に、天皇寝疾不予したまふ。
 冬十月の甲子の朔壬午((十九日))に、東宮、天皇に見えて、吉野((山国町若宮八幡)に之りて、脩行仏道せむと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道((香春町阿曽隈社)に至りて還る。

 「壬申の乱」については、天智天皇の死の疑義から天智天皇は壬申の乱前に病死したのではなく、大海人皇子(後の天武天皇)と直接戦い、敗れて入水自殺をされたと考えている。『万葉集』巻第二の147〜155番に天智天皇の挽歌が詠まれている。

 『万葉集』巻第五の794番歌は、題詞に「日本挽歌」とある。日本の葬式の歌。日本という国が滅びたという詠い方の歌である。題詞が非常にヘンテコな歌である。

 日本挽歌 序文
 盖聞、四生起滅、方夢皆空、三界漂流、喩環不一レ息。所以、維摩大士在于方丈、有染疾之患、釋迦能仁、坐於雙林、無泥洹之苦。故知、二聖至極、不力負之尋至、三千世界、誰能逃黒闇之捜来。二鼠競走、而度目之鳥旦飛、四蛇争侵、而過隙之駒夕走。嗟乎痛哉。紅顏共三従長逝、素質与四徳永滅。何圖、偕老違於要期、獨飛生於半路。蘭室屏風徒張、断腸之哀弥痛、枕頭明鏡空懸、染筠之涙逾落。泉門一掩、無再見。嗚呼哀哉。

 愛河波浪已先滅、苦海煩悩亦無結。従来厭離此穢土。本願託生彼浄刹

 「日本挽歌」の序文が長文である。テーマは、夫婦の事であり、「偕老同穴の契り」を結んでも別々に亡くなっていき、夫婦のどちらか一人が残されるという序文である。
 題詞の「日本挽歌」とは、なにか? 日本」というのは国である。福永説では、倭国本朝倭国東朝の二つの国があった。これを夫婦に準えて、片方の国が死んだという歌であろうという予測である。

 日本挽歌 序文
 盖し聞く、 四生の起滅は夢の皆空しきが方く、三界の漂流は環の息まぬが喩し。所以(そゑに)、維摩大士も方丈に在りて、染疾の患へを懐きしこと有り、釋迦能仁も雙林に坐して、泥洹(ないをん)の苦を免れたまひぬといふこと無し。故に知りぬ、二聖至極すら力負の尋ね至ることを拂ふといふこと能はず、 三千世界に誰か能く黒闇の捜ね来ることを逃れむ。二つの鼠競ひ走りて、目を度る鳥旦に飛び、四つの蛇争ひ侵して、隙を過ぐる駒夕に走る。嗟乎痛しきかも。紅顏は三従と(とこしなへ)に逝き、素質は四徳と永に滅ぶ。何そ、偕老の要期に違ひ、獨飛して半路に生きむといふことを圖らむ。蘭室に屏風徒らに張 りて、断腸の哀しび(いよよ)痛く、枕頭に明鏡空しく懸りて、 染筠(せんゐん)の涙(いよよ)落つ。 泉門一たび(おほ)はれて、(また)見るに由無し。 嗚呼哀しきかも。
 愛河の波浪は已先(すで)に滅え、 苦海の煩悩も亦結ぼほるといふこと無し。 従来(むかしより)此の穢土を厭離す。本願をもちて生を()の浄刹に()せむ。
 日本挽歌一首
 大王能 等保乃朝廷等 斯良農比 筑紫國尒 泣子那須 斯多比枳摩斯提 伊企陀尒母 伊摩陀夜周米受 年月母 伊摩他阿良祢婆 許〃呂由母 於母波奴阿比陀尒 宇知那毗枳 許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良尒 石木乎母 刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿礼乎婆母 伊可尒世与等可 尒保鳥能 布多利那良毗為 加多良比斯 許〃呂曽牟企弖 伊弊社可利伊摩須

794

 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち(なび)()やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 岩木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 我れをばも いかにせよとか にほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離りいます

 解釈にある「(奈良の)家」は、平城京の家であるが、通説の奈良市ではなく、福永説では福岡県嘉穂郡桂川町土師三区にあったとしている。

 大君の(とお)朝廷(みかど)である筑紫(ちくし)の国(北九州)に泣く子のように慕い来られて息も休める暇もなく、年月もいくらも経たないのに、思う間もなく、ぐったりされ、寝込んでしまわれた。なんと言っていいのか、どうしていいか分からず、岩や樹に問いかけても知らぬ顔でせんない。(奈良の)家にいらっしゃればまだ生き生きとされていただろうに恨めしい。妻は私にどうせよというのか。カイツブリのように夫婦並んで語っていたのに、ああ、それに背いて家から永遠に離れてしまわれた。
 反 歌
 伊弊尓由伎弖 伊可尓可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜左夫斯久 於母保由倍斯母

795

 家に行きて いかにか我がせむ 枕付く 妻屋寂しく 思ほゆべしも
 奈良の家に帰ったらどうしたらよかろう。共寝した妻の部屋が寂しく思われるばかりである。
 伴之伎与之 加久乃未可良尓 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左

796

 はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の すべもすべなさ
 こんなことになるとも知らず、ここ太宰府まで付いてきてくれた妻の心を思うと、ただ辛い。
 久夜斯可母 可久斯良摩世婆 阿乎尓与斯 久奴知許等其等 美世摩斯母乃乎

797

 悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを
 ああ、こんなことになるんだったら故郷の大和をことごとく見せておくんだったのに。

 797番の解釈にある「故郷の大和」は、福永説では豊国の事である。

 伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓

798

 妹が見し (あふち)の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに
 妻が愛した栴檀(せんだん)の花が散らんとしている。亡くなって間がなく涙がとまらないのに。
 大野山 紀利多知和多流 和何那宜久 於伎蘇乃可是尓 紀利多知和多流

799

 大野山 霧立ちわたる 我が嘆く おきその風に 霧立ちわたる
 大野山に一面霧が立ち込めている。我が嘆く息吹の風によって一面霧が立ち込めている。
 神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良上

*1

 楝:おうち(あふち)、せんだん。

 798番で、妻が亡くなったと詠われている。妻は大和側であるから福永説では、豊国側に当る。豊国側が亡くなったとすれば、これは壬申の乱の結果である。筑紫君薩野馬(さちやま)(大海人皇子)が豊君の天智天皇に勝利し、天智天皇は入水自殺をした。歌の内容は、こう考えた時に福永説と合っている。

 799番にある「大野山」は、筑紫側の大宰府にある大野城の有る山である。

 「神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良」と日付まで書かれたこの「日本挽歌」は、どんな意味のある歌でしょうか?
 山上憶良というのは、変な(不思議な)歌人である。

 長年、福永説で唱えてきた二つの王朝(倭国本朝倭国東朝)において、天智二年(663年)の白村江の戦いでは筑紫側の倭国本朝が敗れて、倭国東朝(豊国側)の天智天皇に王権が移った。
 だが、約10年後、672年の壬申の乱で筑紫君薩野馬(=大海人皇子、後の天武天皇)が勝利して、再び王権を倭国本朝(筑紫国)に取り戻した。
 したがって、天智天皇が670年に「日本」と号した豊国が政治的に滅んだ事を詠んだ歌が、この「日本挽歌」である。山上憶良は、挽歌として詠んでいるから天智天皇の「日本国(豊国)」が滅んだことを嘆いた歌である。
 倭国本朝(筑紫国)の天下となり、筑紫側から詠んでも大野山には、霧が立ち込めている。この歌は夫婦に例えられていて、筑紫側が夫、豊国側が妻という立場で詠まれていて、妻が亡くなったと詠んでいる。
 福永説の立場から、題詞に「日本挽歌」とあるこの歌の解釈である。これが、日本の葬式の歌の解釈である。主体は、「日本国」であるが、歌の内容は、「夫婦」である。変な歌である。