「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 鏡の池(香春町鏡山)= 神功皇后伝承地

<鏡乃池>

「写真」

 この池に神功皇后が自分の姿を映し、髪の乱れを直したので「 鏡乃池 」と呼ばれるようになったという伝説。

 写真は、「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」の講演より

 香春の神と天皇(その1)
 (令和6年1月6日(土) 香春町郷土史会例会)

 『万葉集』355番歌  生石(おふしの)村主(すぐりの)真人(まひと)歌一首

 大汝少彦名のいましけむ志都(しつ)石屋(いはや)は幾代経にけむ

 歌の中に出てくる「志都(しつ)石屋(いはや)」が何処か?「 生前の大物主の居所」を田川市夏吉の若八幡宮御縁起より見出している。

 『古事記』にある素戔烏尊の「出雲八重垣」と詠われた須賀の宮跡の地も香春町鏡山の鏡乃池の奥に見つけ出した。その小山の場所は、下から数えると丁度8段になっている。

 香春の神と天皇(その3)
 (令和6年7月6日(土) 香春町郷土史会例会)

 この「鏡乃池」がある香春町鏡山は、神功皇后が忍熊王を滅ぼした後、安心してやって来られた土地である。

鏡山(豊前の國風土記)
 豊前國風土記云 田河郡 鏡山 郡東 昔者 氣長足姫尊 在此山 遙覽國形 勅祈云 天神地祇 爲我助福 便用御鏡 安置比處 其鏡卽化爲石 見在山中 因名曰鏡山
(萬葉集註釋 巻第三)
 豊前國(とよくにのみちのくち)の風土記にいわく、田河の郡 鏡山 郡の東にあり 、昔 氣長足姫尊 この山にいまして、遙かに國形を見て 勅祈(うけい)していわく、天神(あまつかみ)(くにつ)(かみ)も我が爲に(さきわへ)たまえ、と。
 すなわち、御鏡をもちて、この所に安らけく置きたまいき。その鏡すなわち石となりて、山の中に見在り。よりて名づけて、鏡山という。

 上記「香春の神と天皇(その1)」で説明した若八幡宮縁起には、磯津(しづ)鏡山だという伝承が書かれている。

神功皇后と鏡乃池
「写真(鏡の山)」
「写真(鏡乃池)」

 口碑によれば、神功皇后は仲哀天皇が亡くなられた後、鏡の山で天神地祇にお祈りされて山を下り、鏡ケ池を水鏡にして、      (香春町歴史探訪)

 『香春町歴史探訪』には、「仲哀天皇が亡くなられた後」と書かれているが、実際は「忍熊王を滅ぼした後」と訂正するべきだと思う。
 神功皇后が、香春町鏡山の地に来られて、この鏡乃池を水鏡としている。この史実を考えれば、神功皇后(神功天皇)も「香春の天皇」である。

神功皇后と鏡乃池
「説明板(鏡が池)」

 第13回古代史講座古代田川を解き明かす
 鷹羽の神々 -倭成す大物主-
 (令和元年10月20日(日)、主催 田川広域観光協会古代史研究会 、於 福岡県立大学大講義室)より

 三輪山(香春岳)の近くにあるこの  「玉垣様」 は、大物主であった。

神武天皇紀の大己貴大神
 復た、大己貴大神(なづ)けて曰はく、「玉牆(たまがき)の内つ国。」とのたまひき。
 饒速日命、天磐船に乘りて、太虛(おほぞら)を翔り行きて、是の(くに)(おせ)りて(あまくだ)りたまふに及至(いた)りて、故、因りて目けて曰はく、「虛空(そら)見つ日本の国」と曰ふ。

香春町鏡山にある「鏡乃池」。
この少し先に「玉垣様」という小さな石祠がある。

「写真」

 <所在地のGoogelマップ>