「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
古代田川に天皇がいた2
■ 神武東征により倭奴(いぬ)国が滅び邪馬台(やまと)国が成立する
● 神武第二次東征は、筑紫から菊池・山鹿に戻り、宮崎方面に迂回する
・・・ 神武天皇は、第一次東征に失敗する。それで、筑紫へ一旦帰り、三年間再軍備をしてから、
再び豊国へ攻め込んでいく。
● 神武第二次東征で最初に攻めた場所は、天香山(香春三ノ岳)のある香春である
・・・ 神武天皇が、攻め込んで行った場所は、九月に書いてる天香山の攻略が、日本書記神武紀の半分の
分量書かれている。
その天香山が香春三ノ岳である限り、神武天皇は香春を攻めたのである。攻めた相手が、赤銅の
八十梟帥であり、銅の字が付いている。香春三ノ岳から銅が採れることを疑っていないでしょ。
神武天皇は、銅を支配していた敵を倒したのである。日本書紀にそのように書かれている。
神武東征の道案内をしたのが、頭八咫烏である。 求菩提山 には、八天狗像が祭られている。その
八咫烏は、インドで有名なガルーダ神がルーツであろう。頭が鷲で、体が人間で背中に翼がある。
このガルーダ神を祭るのが、ガルダ衆である。それが訛り、カラシュ→カラスというのが、福永
語源説である。
英彦山の 高住神社 に豊前坊・大天狗が祭られている。添田町のあちらこちらに天狗のお面が
掛かっている。そのお面の特色は、赤い顔、高い鼻のデフォルメである。インド・アーリア系の
人である。
かつて、インド人が田川にいた。越の人々もいたので中国人も来ている。朝鮮からも来ているので、
田川は国際的だった。
・・・ 戦中までよく見られた、八咫烏に案内される神武天皇の絵である。
・・・ 川崎町にある天降神社の主神が、鸕鷀草葺不合命で、第八神が磐余彦命、神武天皇である。間違いなく
神武天皇は、川崎町の地に来ている。英彦山から川崎町を通って、香春に入っている。
● 立岩丘陵の籠る磯城彦、鳥見野(直方市頓野)の長髄彦を撃ち、倭奴国が滅亡する
・・・ 香春を攻略した後、次に嘉麻水系(遠賀川水系)まで攻めていく。立岩丘陵にいる磯城彦を攻める。
飯塚市の 熊野神社 の辺りは、まだ、海が入り込んでいた。その熊野神社の所に上陸して、磯城彦を
倒したらしい。
最後に長髄彦と戦って、饒速日(天神)が建てた倭奴国を滅ぼす。さらに残存勢力を掃討し、香春に
宮を建てていく。
・・・ 立岩遺跡の人骨を磯城彦の先祖と言ったのは、神武天皇が磯城彦を倒した場所だからである。立岩遺跡は、
それから後に祭る人が途絶えて、2000年近く眠っていた。
それが、昭和38年頃に発掘されて、地下から蘇った。
立岩神社 にある天磐船のモニュメントの石が、真っ二つに折られている。これは、神武天皇の仕業だと
考えている。この証拠がある限り、神武天皇(神武東征)は、奈良県には行っていない。
・・・ 神武天皇が、最後に長髄彦に勝利した鳥見野(とみの)が、 直方市頓野 だろうと思われる。
・・・ 金色の鳶が、ピカッと光って敵を倒したという神話である。
● 求菩提山縁起によれば、神武東征は、瀬戸内海を渡り奈良県(大和)へ行っていない
・・・ 八天狗像のある求菩提山の縁起に神武天皇が、威奴(いぬ)の邪神を祓って、九州を治めたと書いてある。
神武天皇は、西暦121年に橿原宮で即位する。
金印をもらった倭奴国の後に神武天皇の国が出来た。つまり、倭奴(いぬ)国滅び邪馬台(やまと)国の
成立である。
だから、倭(やまと=邪馬台)王朝は、田川に興ったと言い続けている。神武天皇は、奈良県に行って
いない。瀬戸内海を渡っていない。
神武天皇は、東征に成功した後、一旦、 寶滿山(竈門山) に帰り、それから香春に戻ったことが、
この社伝には書かれているが、日本書紀には書かれていない。
● 卑弥呼の時代は、神武天皇が邪馬台(やまと)国を創始してから7、80年後である
・・・ 邪馬台国の女王、卑弥呼の時代は、神武天皇より後の時代である。同じ田川の土地での歴史である。
西暦121年に神武天皇は橿原宮で即位する。
『魏志倭人伝』の一説に「其國本亦以男子為王住七八十年・・・」とあり、神武天皇の後、7,80年は
男王の時代だったが、大乱が続いたので共立して女子の王を立てた。それが、卑弥呼である。
何故、倭国大乱が起こったか? 菊池出身の手研耳命が2代目の大王に即位したが、西暦139年に
神武天皇と物部氏の姫の間に生まれた神渟名川耳尊(後の第2代綏靖天皇)に腹違いの兄である手研耳命を
暗殺した。これが、倭国大乱の遠因だと日本で始めて言った。
・・・ 神武天皇の橿原宮は、香春町の 鶴岡八幡宮 の下に眠っているのであろうと考えている。
日本書紀によれば、神武天皇は、畝傍東北陵に葬られたとあり、畝尾山は、香春一ノ岳であり、ピッタリ
その東北に地元の人が「 おほきんさん 」という2000年の長きにわたり守り続けてきたお墓がある。
それは、弥生時代の円墳であり、これが、本物の神武天皇陵ではないかと考えている。