「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 古代史フォーラム
  古代田川に天皇がいた2
 (平成30年3月21日(水)、於:福岡県立大学講堂)より

 古代田川に天皇がいた2

■ 神武東征により倭奴(いぬ)国が滅び邪馬台(やまと)国が成立する

● 神武第二次東征は、筑紫から菊池・山鹿に戻り、宮崎方面に迂回する

・・・ 神武天皇は、第一次東征に失敗する。それで、筑紫へ一旦帰り、三年間再軍備をしてから、
   再び豊国へ攻め込んでいく。

 数ヶ月、狹野
嶽(求菩提山)
に通い、「 頭 
大天狗(豊前坊)
及び「 八咫烏 
(求菩提山八天
狗)一族と同盟
を結ぶ。
 この間、吉野
の国樔(玖珠)

部らを巡撫。
(日本書紀要約)
一一八 春二月、第二次東征開始。
  「日を背にして戦う神策」を実行に移す。
   日向から速吸門(豊予海峡)に至り、
  珍彦を道案内とする。
   菟狹(安心妻垣神社)に至り、一柱騰
  宮
に入る。
「写真」

安心院妻垣神社

神武天皇の第二次東征

 

● 神武第二次東征で最初に攻めた場所は、天香山香春三ノ岳)のある香春である

・・・ 神武天皇が、攻め込んで行った場所は、九月に書いてる天香山の攻略が、日本書記神武紀の半分の
   分量書かれている。
    その天香山が香春三ノ岳である限り、神武天皇は香春を攻めたのである。攻めた相手が、赤銅の
   八十梟帥
であり、銅の字が付いている。香春三ノ岳から銅が採れることを疑っていないでしょ。
    神武天皇は、銅を支配していた敵を倒したのである。日本書紀にそのように書かれている。

    神武東征の道案内をしたのが、頭八咫烏である。  求菩提山 には、八天狗像が祭られている。その
   八咫烏は、インドで有名なガルーダ神がルーツであろう。頭が鷲で、体が人間で背中に翼がある。
    このガルーダ神を祭るのが、ガルダ衆である。それが訛り、カラシュ→カラスというのが、福永
   語源説である。

    英彦山の  高住神社 に豊前坊・大天狗が祭られている。添田町のあちらこちらに天狗のお面が
   掛かっている。そのお面の特色は、赤い顔、高い鼻のデフォルメである。インド・アーリア系の
   人である。
    かつて、インド人が田川にいた。越の人々もいたので中国人も来ている。朝鮮からも来ているので、
   田川は国際的だった。

「写真」

頭八咫烏

求菩提山八天狗像

頭八咫烏のルーツ
「写真」

ガルーダ神(ガルダ衆→カラス)

(日本書紀)
  十月、赤銅の八十梟帥を国見丘に破る。
  九月、天香山(香春岳)攻略にかかる。
  八月、菟田縣の血戦に勝つ。
  七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
一一八 
  六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を
    帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣かんと
    欲す。」
神武天皇の第二次東征

 

・・・ 戦中までよく見られた、八咫烏に案内される神武天皇の絵である。

絵「八咫烏に導かれる神武天皇」

 

・・・ 川崎町にある天降神社の主神が、鸕鷀草葺不合命で、第八神が磐余彦命、神武天皇である。間違いなく
   神武天皇は、川崎町の地に来ている。英彦山から川崎町を通って、香春に入っている。

写真「天降神社」
写真「天降神社の祭神」
川崎町の神武天皇

 

写真「香春岳(昭和十年)」

 

● 立岩丘陵の籠る磯城彦、鳥見野(直方市頓野)の長髄彦を撃ち、倭奴国が滅亡する

・・・ 香春を攻略した後、次に嘉麻水系(遠賀川水系)まで攻めていく。立岩丘陵にいる磯城彦を攻める。
   飯塚市の  熊野神社 の辺りは、まだ、海が入り込んでいた。その熊野神社の所に上陸して、磯城彦を
   倒したらしい。

    最後に長髄彦と戦って、饒速日(天神)が建てた倭奴国を滅ぼす。さらに残存勢力を掃討し、香春に
   宮を建てていく。
   

・一一九 春二月、「諸將に命じて士卒を
  (えら)ぶ」。
  倭奴国の残存勢力を掃討する。
・  長髄彦は年代が合わず、滅ぼされた
  のは、天忍人命・天忍男命のようである。
  饒速日の別の末裔は神武に帰順したよう
  でもある。
・倭奴国滅亡。
・  十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む。
  「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に
  長髓彦を撃つ。」苦戦を強いられたよう
  だが、辛勝し、終に長髓彦を殺す。
・一一八 十一月 立岩丘陵(飯塚市)に籠
  る磯城彦を攻めようとして、神武は川と
  海の混ざる広大な沼を徒歩で渡り、片島
  (飯塚市)に上陸、遂に「熊野の神邑
  を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。
  「天磐盾(立岩神社)に登り」、東征
  成就を天祖に祈願する。
神武天皇の第二次東征

 

・・・ 立岩遺跡の人骨を磯城彦の先祖と言ったのは、神武天皇が磯城彦を倒した場所だからである。立岩遺跡は、
  それから後に祭る人が途絶えて、2000年近く眠っていた。
   それが、昭和38年頃に発掘されて、地下から蘇った。

      立岩神社 にある天磐船のモニュメントの石が、真っ二つに折られている。これは、神武天皇の仕業だと
  考えている。この証拠がある限り、神武天皇(神武東征)は、奈良県には行っていない

写真「立岩遺跡の人骨」

 立岩遺跡 

写真「立岩神社」
立岩神社の証言

 

・・・ 神武天皇が、最後に長髄彦に勝利した鳥見野(とみの)が、  直方市頓野 だろうと思われる。

直方市頓野(鳥見野:とみの→とんの)

Google Earth「直方市頓野」
 十有二月癸巳朔丙申、皇師遂擊長髄彥
連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷、乃有
金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭、其鵄光曄
煜、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、
不復力戰。長髄、是邑之本號焉、因亦以
爲人名。及皇軍之得鵄瑞也、時人仍號鵄
邑、今云鳥見是訛也。
神武東征最後の激戦地

 

・・・ 金色の鳶が、ピカッと光って敵を倒したという神話である。

絵「神武東征 鳥美野の戦い(金色の鵄)」

 

● 求菩提山縁起によれば、神武東征は、瀬戸内海を渡り奈良県(大和)へ行っていない

・・・ 八天狗像のある求菩提山の縁起に神武天皇が、威奴(いぬ)の邪神を祓って、九州を治めたと書いてある。
   神武天皇は、西暦121年に橿原宮で即位する。 
    金印をもらった倭奴国の後に神武天皇の国が出来た。つまり、倭奴(いぬ)国滅び邪馬台(やまと)国の
   成立
である。
    だから、倭(やまと=邪馬台)王朝は、田川に興ったと言い続けている。神武天皇は、奈良県に行って
   いない。瀬戸内海を渡っていない。

※ 神武即位。
  倭奴(いぬ)国滅び邪馬台(やまと)国成立。
(日本書紀)
一二一
  辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、橿原
 宮に於いて帝位に即きたまふ
写真「求菩提山縁起」
求菩提山縁起

 

・・・ 鞍手郡誌に残されていた  射手引神社 の神武天皇の東征コースである。東征成就後に頭八咫烏たちが
   領地としてもらったのが、赤村を中心に求菩提山から  烏尾峠 までであり、ここが飛ぶ鳥の「アスカ」と
   いう地名の起こりだと思われる。

    神武天皇は、東征に成功した後、一旦、  寶滿山(竈門山) に帰り、それから香春に戻ったことが、
   この社伝には書かれているが、日本書紀には書かれていない。

F 一、鳥居 (同)
    前記八所神社附近の地名、靈烏が
    『伊名和』と鳴きて皇軍を導いた土地
E 一、天降八所神社 (同、頴田村)
    皇軍行路に惱む時、八神雲影に感現して
    進路を教へ給ふ
D 一、馬見山 (同、足白村)
    天孫ニニギの尊の靈跡を訪ね降臨供奉の
    臣馬見物部の裔駒主命を東道役とし給ふ
C 一、神武山 (同宮野村、熊田村)
    カムタケ山といひしが今は單に神山といふ
B 一、小野谷 (現嘉穂郡宮野村)
    迷路を質すべく高木の神を祭りたまふ
A 一、帝王越 (帝王山の山の尾をいふ)
鞍手郡誌の東征コース ①

 

N 一、勝負坂 (同)
M 一、鯰田 (飯塚市)
    沼田といふ、天皇遠賀川を渡り惱み
    大迂回を行ひ給ふた所
L 一、目尾山 (同幸袋町)
K 一、鹿毛馬 (同)
J 一、嚴島神社 (同) 
    天皇、宗像三女神を祭り給ふ
I 一、佐與 (同)
    天皇の靈跡―佐與計牟の約言
H 一、杉魂明神 (同)
    天皇の御惱を醫し奉ったところ祭神は
    天皇と駒主命と椎根津彦
G 一、烏尾峠 (同)
    靈烏を烏尾明神の出現といひ、カラスは
    八咫烏のカラスに同じ
鞍手郡誌の東征コース ②

 

U 一、白旗山 (同) 
    天祖を祭られて神託を得られた靈跡
T 一、擊皷神社 (同幸袋町)
    天皇進軍を命じ給ふた故地
S 一、片島 (同二瀬村)
    加多之萬、又は堅磐と書き皇軍上陸の
    地を指す
R 一、鉾の本 (同) 
    豪族八田彦皇軍を奉迎、遠賀川を渡河
    された故名
Q 一、王渡 (同)
P 一、徒歩渡 (同)
O 一、立岩 (同) 
    天皇が天祖に祈願し給ふたところ
鞍手郡誌の東征コース ③

 

e 一、大分 (同) 
    オホギタと讀む、天皇の神靈を祭る
d 一、高田 (同大分村)
    田中熊別の奉迎地
c 一、日の原 (同)
    天皇に因む地名
b 一、姿見 (同)
a 一、潤野 (嘉穂郡鎮西村)
    天祖を祭られた所
Z 一、曩祖の杜 (飯塚市)
    曩祖を祭られた所
Y 一、神武邑 (同)
    天皇に因む地名
X 一、神武山 (同)
W 一、伊岐須 (嘉穂郡二瀬村)
    大屋彦の奉迎地
鞍手郡誌の東征コース ④

 

(以下略)
l 一、若杉山 (同篠栗町)
    いづれも天皇の靈跡地 
k 一、神武原 (同)
j 一、蚊田の里 (粕屋郡宇美町)
    荒木の女志津姫皇子蚊田皇子を生み
    奉った地
i 一、田中庄 (筑紫郡大野村)
    荒木武彦奉迎地
h 一、寶滿山 (竈門山)
    登山して御母君の靈位を祭り給ふ
g 一、牛頸 (同)
    土蜘蛛打猿打首の故地
f 一、山口 (同上穂波村)
    皇軍戰勝休養の地
鞍手郡誌の東征コース ⑤

 

● 卑弥呼の時代は、神武天皇が邪馬台(やまと)を創始してから7、80年後である

・・・ 邪馬台国の女王、卑弥呼の時代は、神武天皇より後の時代である。同じ田川の土地での歴史である。
   西暦121年に神武天皇は橿原宮で即位する。
    『魏志倭人伝』の一説に其國本亦以男子為王住七八十年・・・とあり、神武天皇の後、7,80年は
   男王の時代だったが、大乱が続いたので共立して女子の王を立てた。それが、卑弥呼である。

    何故、倭国大乱が起こったか? 菊池出身の手研耳命が2代目の大王に即位したが、西暦139年に
   神武天皇と物部氏の姫の間に生まれた神渟名川耳尊(後の第2代綏靖天皇)に腹違いの兄である手研耳命を
   暗殺した。これが、倭国大乱の遠因だと日本で始めて言った。

「豊国 対 火国」
謝承・范曄後漢書)
一四六~一八九 
  桓・霊の間、倭国大乱。
一三九
  皇子神渟名川耳尊、手研耳命大王を弑し
  王位を奪う。
 「太歳己卯」
『魏志倭人伝』
一二一
 「辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、橿原
  宮に於いて帝位に即きたまふ」 神武即位
倭国=邪馬台国創始

 

・・・ 神武天皇の橿原宮は、香春町の  鶴岡八幡宮 の下に眠っているのであろうと考えている。

    日本書紀によれば、神武天皇は、畝傍東北陵に葬られたとあり、畝尾山は、香春一ノ岳であり、ピッタリ
   その東北に地元の人が「  おほきんさん 」という2000年の長きにわたり守り続けてきたお墓がある。
    それは、弥生時代の円墳であり、これが、本物の神武天皇陵ではないかと考えている。

「写真」

香春の鶴岡八幡宮(橿原宮)

「写真」

おほきんさん(畝傍東北陵)