「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「伍」)

第二次神武東征
(『鞍手郡誌』「射手引神社社伝」の神武東征コースをたどる)

第二次神武東征 
鞍手郡誌
 昭和九年発行の『鞍手郡誌』に、筑豊の各神社社伝からまとめた、記紀には記されていない詳細な「神武東征」のコース(この項の末尾には、「筑紫史談及福岡日日新聞抄。福岡市史編纂主任永島芳郎氏述。」とある。)が示されている。
 筑豊は私の唱える「天満倭国」であり、都は、神武紀に云う「中洲」であり、竈門神社の由緒に云う「中州の皇都」である。
 詳細は後述するが、まず、宇佐から英彦山へのコースが示されている。
 『鞍手郡誌』の編者は、「宇佐から中津に出、山国川に沿うて耶馬渓を登られ、日田付近の守實から五里余の難路を攀じさせられて英彦山の山頂を極めさせられた」と推測している。
 そして、「日子山天神天忍穂耳尊のお降りになった国見山であり、神武天皇も先ずこの山頂に於いて『国覓(くにまぎ)』を遊ばした。
 同山の水精石の由来にも神武五年七月云々の文字がある。」という記述が見られる。
 管見するかぎり、一応合理的なコースである。

 

第二次神武東征 
菟田縣の血戦
七月 頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
(日本書紀+鞍手郡誌)
日子山天神天忍穂耳尊のお降りになった国見山であり、神武天皇も先ずこの山頂に於いて『国覓(くにまぎ)』を遊ばした。同山の水精石の由来にも神武五年七月云々の文字がある。」
(鞍手郡誌)
神武五年は、神武元年を甲寅(きのえとら)(紀元前六六六)とした場合、戊午(紀元前六六二)年となる。
 『日本書紀』神武即位前紀戊午年記事に七月記事はない。この一行は福永が『鞍手郡誌』によって設けた行文である。
 なお、福永説では、神武即位前紀戊午年は紀元後一一八年に当たる。
八月、菟田の穿邑川崎町に至る。
 菟田縣の血戦に勝つ。
九月、菟田川の朝原川崎町田原顕齋(うつしいはひ)をなす。
(日本書紀+川崎町史)

 (日本書紀紀年)
甲寅(紀元前667年)
乙卯(紀元前666年)
丙辰(紀元前665年)
丁巳(紀元前664年)
戊午(紀元前663年)
己未(紀元前662年)
庚申(紀元前661年)
辛酉(紀元前660年)  

 (福永説年表)  
甲寅(西暦114年): 第一次東征(東征失敗)
乙卯(西暦115年):┐
丙辰(西暦116年):│三年間、高千穂宮で再軍備
丁巳(西暦117年):┘
戊午(西暦118年): 第二次東征、成就
己未(西暦119年): 論功行賞
庚申(西暦120年): 正妃を迎える
辛酉(西暦121年): 神武天皇、橿原宮で即位  

*.日本書紀に
 七月の記事は無い

 

第二次神武東征 
八十梟帥を國見丘に擊つ
 冬十月の癸巳(みづのとのみ)(ついたち)に、天皇、其の嚴瓮(いつへ)(おもの)(たてまつ)りたまひ、(いくさ)(ととの)>へて出でたまふ。
 先づ八十梟帥國見丘に擊ちて、破り斬りつ。是の(えだち)に、天皇の志、必ず克ちなむといふことを(たも)ちたまへり。乃ち御謠(みうたよみ)して曰はく、
 神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ(もとほ)る 細螺(しただみ)の 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ
 神風の伊勢の海の大石に
這いまわる細螺のように、
わが軍勢よ、細螺のように
這いまわって、必ず敵を撃
ち敗かしてしまおう、撃ち
敗かしてしまおう。
謠の意は、大石を以て其
國見丘(たと)ふ。
岩石山案内図

 日本書紀の注に「大石を以て其の國見丘」とあり、赤村と添田町の境にある岩石山は、見事に大石だらけである。だから、日本書紀は、やはり田川の地(筑豊)で作られているという可能性がある。

 ここの歌謡の元歌は、筑紫の海か有明の海か解らないが、そこで細螺(しただみ)のようにと久米(来目)部が歌っているが、次にある「大石にかけて国見丘に喩え」た。この一文で、日本書紀 神武天皇紀が筑豊(田川、みやこ)の土地、あるいは、鞍手・嘉穂の土地で作られているかという事になってくる。神武東征「肆」で説明した付け加え、補いである。

● 倭奴(いぬ)国(=天満倭国)との最終決戦に入る。

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
十一月、立岩丘陵飯塚市に籠る磯城彦
 攻めようとして、神武は川と海の混ざる
 広大な沼を徒歩で渡り、片島飯塚市
 上陸、遂に「熊野の神邑」を攻撃し、
 城彦
を滅ぼす。「天磐盾立岩神社に登
 り」、東征成就を天祖に祈願する。
十二月、長髄彦
 との最後の決
 戦に臨む。
「十有二月の癸
 巳の朔丙申に、
 皇師遂に長髓
 彦
を撃つ。」
 苦戦を強いら
 れたようだが、
 辛勝し、終に長髓彦を殺す。
倭奴国滅亡し、邪馬臺国成立。
(日本書紀+鞍手郡誌+後漢書)
「立岩神社」

 *.写真は、立岩神社の壊された天の磐船である。

● 次のスライドが、『鞍手郡誌』である。

第二次神武東征 
鞍手郡誌
「画像(鞍手郡誌)」

 

第二次神武東征 
鞍手郡誌
「画像(鞍手郡誌)」

 昭和9年に書かれた『鞍手郡』の「上古史」の中に神武天皇御東征が書かれている。そこに「射手引神社社伝」が引かれて、神武東征コースが描かれている。

第二次神武東征 
鞍手郡誌
擊鼓神社古縁起
(日子)山頂から右されたか左されたか……それにはこんな古記録がある、即ち
 天皇方に中州に遷らんと欲し日向より發行し給ふ。(中略)
 陸路将に筑紫に赴かんとし給ふ時、馬見物部の裔駒主命眷族を率ゐ田川郡吾勝野に迎へて足白の駿馬を献じ、因て奏して曰く、是より應に導き奉る可し、宜しく先づ着行すべし、臣が馬は野の牧馬にして發行に奉るなり
(擊鼓神社古縁起)
 云々で、これによって、天皇豊前田川郡に下られ、高羽川(彦山川)に沿うてアガノ(上野)方面に進まれたことが幻想され、それから先の御巡路は、天神皇祖並びに天皇に御かゝはりのある神社、地名等の社傳、縁起、傳説によって面白く想察され、これを、天皇の皇子の系裔、物部氏の分布、八幡神の所在等に引き當つれば、成る程と一應の首肯を得ることは必ずしも至難でない。

 最初に『鞍手郡』の中にある「擊鼓神社古縁起」である。冒頭の「山頂から右されたか左されたか」とあるのは、日子山と補った。

 「天皇方に中洲(なかつくに)に遷らん」の中州は、立岩遺跡の所を指しているように思う。「日向より發行し」は、先に説明した宮崎県の美々津である。

 「馬見物部の裔駒主命眷族を率ゐ田川郡吾勝野に迎へて」という吾勝野の場所は、岩石山がある土地である。また、馬見物部とあるように馬見神社や馬見山の辺りにいた駒主命が、岩石山の麓(たぶん赤村だと思われる)で神武天皇を迎えたと書かれている。

第二次神武東征 
筑豊最大の現地伝承 射手引神社社伝
 試みに、嘉穂郡『射手引神社』の社傳を抄録し、以下諸神社の社傳、縁起もこれに准じ、それ等の古傳説が天神イザナギ神宗像三女神天忍穂耳尊天孫ニニギの尊神武天皇景行天皇相關聯(あいくわんれん)し、おのがじゝなる社傳縁起の内容が、期せずして相關係してゐることに示唆を感じ、筑豊の山野―北九州の随所に、神武天皇を中心とする神社、地名が餘りに多く、しかも、それが天皇御コースを語る分布を描き、神代史、古代史の時間と空間を如實に指示してゐることに注目して欲しい。
(鞍手郡誌)

 『鞍手郡誌』の編者は、明らかに筑豊から北九州にかけての神社伝承が神武天皇のコース、私に言わせると東征コースに深く関わっていると説明している。その中心が、「射手引神社社伝」である。
 神武東征「伍」では、「射手引神社社伝」と『日本書紀』をつなげながら、神武天皇が吾勝野から馬見山の方向に出て行ったその後を紹介していく。

第二次神武東征 
筑豊最大の現地伝承 射手引神社社伝
 文に曰く
 筑紫の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ、庄の東北に山あり帝王山と云ふ、斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊國宇佐島より柯柯小野に出でて天祖吾勝尊(天忍穂耳尊)兄弟山の中峰に祭りて後、西方に國を覓め給はんとし給ふ時(中略)
 山上神社あり之を射手引神社と云ふ、祭る所の神三座天照大神手力雄命景行天皇なり、天皇(景行天皇)の御宇筑紫全島五月蠅の皆湧くが如し、土蜘蛛と稱する者多く山川の嶮を恃み、恣に黨類を集め、朝命を奉ぜず(下略)
 云々とあり以下これを表記すれば左の通りである。
射手引神社々傳)

 冒頭の「文に曰く」とある文は、「射手引神社社伝」である。「筑紫鎌の南端」の筑紫は、本当は豊前であるべきである。次のというのは、現在の嘉麻地区の嘉麻で二文字になっているが、射手引神社社伝ではどういう訳か、鎌と一文字である。

 「兄弟山の中峰に祭りて後、西方に國を覓め給はん」というのは、神武天皇は、宇佐に上陸して英彦山を越えて、「日を背にして」倭奴国(中洲)を西に向かって攻略するという事である。

 射手引神社は、天照大神、手力雄命、景行天皇の三座の神が祭られているが、ここの天照大神は天忍穂耳尊(天祖吾勝尊)の息子である饒速日尊だと思われる。次の手力雄命は天岩戸でその岩屋戸を力いっぱい引いたという伝説の神である。

● 前のスライドの末に「以下これを表記すれば左の通り」とあり、箇条書きになっている。

第二次神武東征 
筑豊最大の現地伝承 射手引神社社伝
一、帝王越(帝王山の山の尾をいふ)
一、小野谷(現嘉穂郡宮野村)
   迷路を質すべく高木の神を祭りたまふ
一、神武山(同宮野村、熊田村)
   カムタケ山といひしが今は單に神山と
   いふ
一、馬見山(同、足白村)
   天孫ニニギの尊の靈跡を訪ね、降臨供
   奉の臣馬見物部の裔駒主命を東道役と
   し給ふ
一、天降八所神社(同、頴田村)
   皇軍行路に惱む時、八神雲影に感現し
   て進路を教へ給ふ
一、鳥居(同)  
   前記八所神社附近の地名、靈烏が『伊
   那和』と鳴きて皇軍を導いた土地
一、烏尾峠(同)
   靈烏を烏尾明神の出現といひ、カラス
   は八咫烏のカラスに同じ

 小野谷(現嘉穂郡宮野村)を現在の飯塚市と話されているが、嘉麻市である。この「高木の神」は、高御産巣日神の事である。

 神武山(同宮野村、熊田村)とある熊田村は、現在の嘉麻市(旧山田市)の熊ヶ畑辺りである。

 馬見山(同、足白村)の「足白」は、神武天皇が田川郡吾勝野で献上された足白の駿馬で馬見山の地に来られたので、村の名前になった。神武天皇に関わる地名だそうで現在も嘉麻市に足白の地名が残っている。
 「天孫ニニギの尊」というのは、天武天皇によって饒速日尊と入れ替えられている。次の文句「供奉の臣馬見物部の裔駒主命を東道役とし」とあるのに注意して下さい。西へ向かっているハズの神武天皇の案内役が、「東道役」と東の道の案内役とある。
 今までは何故、「東道役」とあるのかよく解らなかったが、今日解決をする。

 川崎町の天降神社と同じ天降八所神社(同、頴田村)である。頴田村は、現在の飯塚市である。次にある鳥居(同)の説明の「靈烏」というのは、八咫烏の事である。

第二次神武東征 
筑豊最大の現地伝承 射手引神社社伝
一、杉魂明神(同)
   天皇の御惱を(いや)し奉ったところ祭神は
   天皇と駒主命と椎根津彦
一、佐與(同)  
   天皇の靈跡―佐與計牟の約言
一、嚴島神社(同)  
   天皇、宗像三女神を祭り給ふ
一、鹿毛馬(同)
一、目尾山(同幸袋町)
一、鯰田(飯塚市) 
   沼田といふ、天皇遠賀川を渡り惱み大
   迂回を行ひ給ふた所
一、勝負坂(同)
一、立岩(同)     
   天皇が天祖に祈願し給ふたところ
一、徒歩渡(同)
一、王渡(同)

 杉魂明神(同)は、天降八所神社(同、頴田村)の近くである。

 佐與(同)も現在、飯塚市に地名がある。嚴島神社(同)も飯塚市の現在もある。

 鹿毛馬(同)は、神籠石で有名な地名である。神武東征の頃にまだ、神籠石は出来ていなかったかも知れない。

 目尾山(同幸袋町)は、珍しい読み方で「しゃかのお山」と読む。飯塚市にある地名である。

 立岩遺跡で有名な立岩(同)が重要である。『鞍手郡誌』が、編集されたのが昭和9年であり発行されたのも昭和9年である。この時に立岩遺跡は、まだ、発掘されていない。立岩遺跡の発掘が始まったのは昭和32年で、後に高島忠平先生も参加された発掘へと繋がっていく。
 立岩の伝承が先に在り、その伝承の地で遺跡が発掘された。

第二次神武東征 
筑豊最大の現地伝承 射手引神社社伝
一、鉾の本(同)   
   豪族八田彦皇軍を奉迎、遠賀川を渡河
   された故名
一、片島(同二瀬村)    
   加多之萬、又は堅磐と書き皇軍上陸の
   地を指す
一、擊皷神社(同幸袋町)  
   天皇進軍を命じ給ふた故地
一、白旗山(同)    
   天祖を祭られて神託を得られた靈跡
一、笠城山(鞍手郡宮田町)  
   天祖の靈を祭り給ふた靈地
一、伊岐須(嘉穂郡二瀬村)  
   大屋彦の奉迎地
一、神武山(同)
一、神武邑(同)       
   天皇に因む地名

 片島(同二瀬村)は、今も飯塚市に残る地名である。この地が「皇軍上陸の地を指す」とある。という事は、この片島の周りは海だったか、あるいは、相当広い川だったという事である。

第二次神武東征 
筑豊最大の現地伝承 射手引神社社伝
一、曩祖の杜(飯塚市)    
   曩祖を祭られた所
一、潤野(嘉穂郡鎮西村)  
   天祖を祭られた所
一、姿見(同)
一、日の原(同)
   天皇に因む地名
一、高田(同大分村)
   田中熊別の奉迎地
一、大分(同)
   オホギタと讀む、天皇の神靈を祭る
一、山口(同上穂波村)
   皇軍戰勝休養の地
一、牛頸(同)
  土蜘蛛打猿打首の故地
一、寶滿山(竈門山)
   登山して御母君の靈位を祭り給ふ

 曩祖の杜(飯塚市)は、今の曩祖八幡宮の所である。

 潤野(嘉穂郡鎮西村)は、潤野炭鉱があった所である。小さな神社(寶満神社)がある。

 高田(同大分村)に書かれている田中熊別は、大宰府にある王城神社に祭られている。

 寶滿山(竈門山)は、先に説明した五瀬命を葬った山であり、ここから言える大事なことは、神武天皇は飯塚市辺りから陸路で西に向かって、寶滿山に帰っているのである。
 御母君とあるのは、玉依姫命の靈位を祭っている。

第二次神武東征 
筑豊最大の現地伝承 射手引神社社伝
一、田中庄(筑紫郡大野村)
   荒木武彦奉迎地
一、蚊田の里(粕屋郡宇美町)
   荒木の女志津姫皇子蚊田皇子を生み
   奉った地
一、神武原(同)
一、若杉山(同篠栗町)
   いづれも天皇の靈跡地
(以下略)

 蚊田の里(粕屋郡宇美町)は、宇美八幡宮の所である。我々が、日本書紀では知りえない神武天皇の后志津姫が蚊田皇子を宇美八幡宮の地で生んでいる。
 ここ宇美八幡宮は、後の西暦300年代に神功皇后が応神天皇を生んだ土地と同じである。これが、福岡県の現地伝承の凄さである。
 古事記、日本書紀、先代旧事本紀には出てこない神武天皇の別の皇子が生まれた場所で、後に神功皇后が応神天皇を生んだことで「宇美(産み)」の名がついたということが、風土記にある。

第二次神武東征 
鞍手郡誌
 以上はその主なるものを示したもので、その故地靈跡には大部分天皇を祭る神社や八幡宮があり、それ等を點線して天皇の御足跡を尋ねて見ると、その御コースは粕屋郡から宗像郡につゞき、海神族の一大本據である志賀嶋にも天皇の神話が遺り、天皇が舊ワタツミ海神國から新ワタツミ海神國を通過され、親しく宗像三神を祭つてこの地(宗像、鞍手、遠賀)の新勢力を隨へさせられ、前記の御目的を御遂行の上、遠賀川を中心とした新々ワタツミ海神族を統率し給ひこの地方の海軍力を皇軍の一新勢力とし、先着の迂回水師と共に一路東征の壯圖につかれた……と推斷することができる。
(福永後略)

 鞍手郡誌の編者は、通説通り瀬戸内海を東に向かい、現在の奈良県(大和国)へ東征させてしまう。が、福永説ではこの部分を全てカットした。
 神武東征は、九州(豊前)内での出来事、九州止まりだと言い続けている。