「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
第二次神武東征
(『鞍手郡誌』「射手引神社社伝」の神武東征コースをたどる)
(日本書紀紀年)
甲寅(紀元前667年)
乙卯(紀元前666年)
丙辰(紀元前665年)
丁巳(紀元前664年)
戊午(紀元前663年)
己未(紀元前662年)
庚申(紀元前661年)
辛酉(紀元前660年)
(福永説年表)
甲寅(西暦114年): 第一次東征(東征失敗)
乙卯(西暦115年):┐
丙辰(西暦116年):│三年間、高千穂宮で再軍備
丁巳(西暦117年):┘
戊午(西暦118年): 第二次東征、成就
己未(西暦119年): 論功行賞
庚申(西暦120年): 正妃を迎える
辛酉(西暦121年): 神武天皇、橿原宮で即位
*.日本書紀に
七月の記事は無い
日本書紀の注に「大石を以て其の國見丘」とあり、赤村と添田町の境にある岩石山は、見事に大石だらけである。だから、日本書紀は、やはり田川の地(筑豊)で作られているという可能性がある。
ここの歌謡の元歌は、筑紫の海か有明の海か解らないが、そこで細螺のようにと久米(来目)部が歌っているが、次にある「大石にかけて国見丘に喩え」た。この一文で、日本書紀 神武天皇紀が筑豊(田川、みやこ)の土地、あるいは、鞍手・嘉穂の土地で作られているかという事になってくる。神武東征「肆」で説明した付け加え、補いである。
● 倭奴国(=天満倭国)との最終決戦に入る。
*.写真は、立岩神社の壊された天の磐船である。
昭和9年に書かれた『鞍手郡』の「上古史」の中に神武天皇御東征が書かれている。そこに「射手引神社社伝」が引かれて、神武東征コースが描かれている。
最初に『鞍手郡』の中にある「擊鼓神社古縁起」である。冒頭の「山頂から右されたか左されたか」とあるのは、日子山と補った。
「天皇方に中洲に遷らん」の中州は、立岩遺跡の所を指しているように思う。「日向より發行し」は、先に説明した宮崎県の美々津である。
『鞍手郡誌』の編者は、明らかに筑豊から北九州にかけての神社伝承が神武天皇のコース、私に言わせると東征コースに深く関わっていると説明している。その中心が、「射手引神社社伝」である。
神武東征「伍」では、「射手引神社社伝」と『日本書紀』をつなげながら、神武天皇が吾勝野から馬見山の方向に出て行ったその後を紹介していく。
冒頭の「文に曰く」とある文は、「射手引神社社伝」である。「筑紫鎌の南端」の筑紫は、本当は豊前であるべきである。次の鎌というのは、現在の嘉麻地区の嘉麻で二文字になっているが、射手引神社社伝ではどういう訳か、鎌と一文字である。
「兄弟山の中峰に祭りて後、西方に國を覓め給はん」というのは、神武天皇は、宇佐に上陸して英彦山を越えて、「日を背にして」倭奴国(中洲)を西に向かって攻略するという事である。
射手引神社は、天照大神、手力雄命、景行天皇の三座の神が祭られているが、ここの天照大神は天忍穂耳尊(天祖吾勝尊)の息子である饒速日尊だと思われる。次の手力雄命は天岩戸でその岩屋戸を力いっぱい引いたという伝説の神である。
● 前のスライドの末に「以下これを表記すれば左の通り」とあり、箇条書きになっている。
小野谷(現嘉穂郡宮野村)を現在の飯塚市と話されているが、嘉麻市である。この「高木の神」は、高御産巣日神の事である。
神武山(同宮野村、熊田村)とある熊田村は、現在の嘉麻市(旧山田市)の熊ヶ畑辺りである。
馬見山(同、足白村)の「足白」は、神武天皇が田川郡吾勝野で献上された足白の駿馬で馬見山の地に来られたので、村の名前になった。神武天皇に関わる地名だそうで現在も嘉麻市に足白の地名が残っている。
「天孫ニニギの尊」というのは、天武天皇によって饒速日尊と入れ替えられている。次の文句「供奉の臣馬見物部の裔駒主命を東道役とし」とあるのに注意して下さい。西へ向かっているハズの神武天皇の案内役が、「東道役」と東の道の案内役とある。
今までは何故、「東道役」とあるのかよく解らなかったが、今日解決をする。
杉魂明神(同)は、天降八所神社(同、頴田村)の近くである。
鹿毛馬(同)は、神籠石で有名な地名である。神武東征の頃にまだ、神籠石は出来ていなかったかも知れない。
目尾山(同幸袋町)は、珍しい読み方で「しゃかのお山」と読む。飯塚市にある地名である。
立岩遺跡で有名な立岩(同)が重要である。『鞍手郡誌』が、編集されたのが昭和9年であり発行されたのも昭和9年である。この時に立岩遺跡は、まだ、発掘されていない。立岩遺跡の発掘が始まったのは昭和32年で、後に高島忠平先生も参加された発掘へと繋がっていく。
立岩の伝承が先に在り、その伝承の地で遺跡が発掘された。
片島(同二瀬村)は、今も飯塚市に残る地名である。この地が「皇軍上陸の地を指す」とある。という事は、この片島の周りは海だったか、あるいは、相当広い川だったという事である。
曩祖の杜(飯塚市)は、今の曩祖八幡宮の所である。
潤野(嘉穂郡鎮西村)は、潤野炭鉱があった所である。小さな神社(寶満神社)がある。
高田(同大分村)に書かれている田中熊別は、大宰府にある王城神社に祭られている。
寶滿山(竈門山)は、先に説明した五瀬命を葬った山であり、ここから言える大事なことは、神武天皇は飯塚市辺りから陸路で西に向かって、寶滿山に帰っているのである。
御母君とあるのは、玉依姫命の靈位を祭っている。
蚊田の里(粕屋郡宇美町)は、宇美八幡宮の所である。我々が、日本書紀では知りえない神武天皇の后志津姫が蚊田皇子を宇美八幡宮の地で生んでいる。
ここ宇美八幡宮は、後の西暦300年代に神功皇后が応神天皇を生んだ土地と同じである。これが、福岡県の現地伝承の凄さである。
古事記、日本書紀、先代旧事本紀には出てこない神武天皇の別の皇子が生まれた場所で、後に神功皇后が応神天皇を生んだことで「宇美(産み)」の名がついたということが、風土記にある。
鞍手郡誌の編者は、通説通り瀬戸内海を東に向かい、現在の奈良県(大和国)へ東征させてしまう。が、福永説ではこの部分を全てカットした。
神武東征は、九州(豊前)内での出来事、九州止まりだと言い続けている。