「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
通説の神武東征に対し、「神武は筑豊に東征した」
通説の神武東征について、現在、ウィキペディアに載っている内容である。
*壱-1:ここの 日向 は、「ひゅうが」と読む?
以上が、『古事記』にある神武東征についての通説の大筋である。
戦前(戦中)、昭和十七年文部省発行の神武天皇聖蹟調査報告が出された。 これは、全国の学者を動員して古事記、日本書紀に基づいて調査した場所の報告書である。以下が、その報告書の聖蹟、聖蹟伝説地、聖蹟推考地、未決定地の抜粋である。
戦前に神武天皇の聖蹟調査が行われた報告書である。明治から戦前にかけての近世の神武東征の考え方である。この時代においては、神武天皇は完全に正史として扱われている。
実際の神武天皇聖蹟顕彰碑である。
聖蹟推考地にある菟狭(大分県宇佐郡)の顕彰碑は、現在の宇佐八幡宮の参道の傍らに建てられている。また、聖蹟にある崗水門(福岡県遠賀郡蘆屋町)は、神武天皇社に建てられている。
聖蹟にある菟田穿邑(奈良県宇陀郡宇賀志村。今の菟田野町宇賀志付近)と鵄邑(奈良県生駒郡。今の生駒郡生駒町の北部から奈良市西端部の旧富雄町付近にわたる地域)は、奈良県に建てられている。
神武天皇聖蹟〇〇顕彰碑というのが、各地に建てられている。
戦後史学の源流 津田左右吉説
- 神武 ~ 神功は架空 - 実は非科学的
津田左右吉氏は、戦前において神武東遷を否定した為に「不敬」「大逆」の汚名を着せられたが、戦後は、津田左右吉氏の考えを基本にリスタートした。
したがって、教科書にもつながるが、「神武~神功は架空」という状態に陥いり、戦後の神武天皇に対する考えになった。
この本の帯に「古代史を科学的に捉え」とあるが、私はこちらが、実は非科学的だと言っている。古事記、日本書紀ともに皇室の先祖が編集された歴史書であるから、神の歴史であっても人皇、神武天皇の歴史であっても我が国の歴史である。
その歴史が、架空であるという訳はないと思われる。
私は、「神武は筑豊に東征した」という「神武天皇紀」復元の一試行を行った。明治から戦後に至るまでの神武天皇の考え方のすべてに逆らうようにして日本書紀を分析した。
*壱-2:天神ニギハヤヒの降臨譚は、天孫降臨の話ではなく天神降臨の話である。
*壱-3:東征したニギハヤヒ直系の王族の大和東征譚は、考古学的にいうと銅鐸文化圏侵入譚の話である。
*壱-4:歴史事実としての神武筑豊東征譚は、神武は筑豊に東征したという話である。
2008年6月20日に共著である『越境としての古代[6]』の中で、かなり意気込んで書いた。
たぶん江戸時代の末期から明治・大正・昭和20年までの神武東征。さらに戦後は、完全に消された神武東征について、「筑豊」にという事が重要であるが、再び現実の神武東征を追究する為に、こちら筑豊の土地に来て20年以上の長きに亘り、現地調査を行ってきた。
次に中国の史書について見てみる。
新唐書の中に神武天皇が出てくる。この新唐書は、「日本は、古の倭奴なり。」の文句で始まる。唐の時代に書かれた記録であり、ここに粗方「日出處天子」の事が書かれている。
その王の姓は阿毎(または、あま)氏とあり、これは阿毎字多利思北孤の事である。自ら初主は天御中主と号すという。彦瀲に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」をもって号となし、筑紫城に居す。とあるからこれは、日本側の書物がもたらされて書かれているという事が判る。
彦瀲の子、神武立ち、更めて天皇をもって号となし、治を大和州に徒す。と書かれている。
新唐書は、余りのも纏められていて解りにくくなっている。次に解りやすいのが、私が良く用いる1345年に元の脱脱が撰した宋史の中にある「王年代紀」である。
その「王年代紀」は、984年に東大寺の僧奝然が北宋の太宗に献上した書物である事がわかっている。それを元の脱脱が、宋史に編集したものである。
初主は、天御中主と號すと始まる。今回は神武天皇に関係する所で、途中の説明は省略して、父親の彦瀲尊まで凡二十三世とあり、新唐書の三十二世と数字がひっくり返っている。実際に名前を数えると二十三世である。
並に筑紫日向宮に都すと「筑紫」の文句が出てくる。名前を赤字で表記しているのは、近頃の講演では、皆豊国の神としている。彦瀲尊から青字で書いているので、ここから筑紫(または火国)の神になる。
九州島の西側を青字で表している。九州島の東側が、豊国で赤字で表している。このように色分けして説明をしている。
彦瀲尊の次が、神武天皇で彦瀲第四子である。大事な点は、筑紫宮から大和州橿原宮に入り居すと書かれている。そして、即位元年が甲寅とある。日本書紀の紀年で換算していくと紀元前667年となる。その年は、周の僖王の時に當るとあるが、実際に調べると周の恵王の時である。
日本書紀による神武天皇の即位年は、辛酉の年で、甲寅の年は東征開始の年になる。この点は、異なっている。
宋史・日本国伝の中に書かれている内容は、日本書紀のイデオロギーというか、考え方に基づいて書かれているが、微妙に違う。
それについて追いかけた時に、日本書紀は壬申の大乱に勝利した天武天皇が、実は筑紫君薩野馬ではなかったかとして、豊君の天智天皇との直接の戦いであったとした。
壬申の大乱の勝者である筑紫君薩夜麻=天武天皇が、修史を企図する。その編修方針こそ「削偽定実」であったとして、分析の結果が、「豊国の神々と天皇の歴史を削り、筑紫国の神々と天皇の歴史を定める」ことと判明した。
そして、古事記は藤原京(福原長者原遺跡第二期遺構)の周辺で編まれ、日本書紀は平城京(嘉穂郡桂川町)の周辺で編まれたようだと言い始めた。古事記も日本書紀も福岡県で出来たと言っている。
古事記(豊国の歴史)の時系列を縦糸に、日本書紀の空間軸(筑紫国・火国と豊国)を横糸にして編み直すと、神武天皇の東征というのは、どのような事件となるのか?
ということで、「神武は筑豊に東征した」というようにかつての記録(文章)を編み直した。