「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「壱」)

通説の神武東征に対し、「神武は筑豊に東征した」

 通説の神武東征について、現在、ウィキペディアに載っている内容である。

通説の神武東征(現在)
 (カム)(ヤマト)伊波礼毘古(イワレビコ)(若御毛沼命)は、兄の五瀬(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。
 舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く
 宇沙都比古(ウサツヒコ)宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。
 彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理(たけりの)(みや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
 浪速国の白肩津に停泊すると、登美能那賀須泥(ナガスネ)()()の軍勢が待ち構えていた。
 その軍勢との戦いの中で、五瀬命は那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった
 五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。
 廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう
」と言った。
 それで南の方へ回り込んだが、五瀬命は紀国の()之水門(ノミナト)に着いた所で亡くなった
 (カム)(ヤマト)伊波礼毘古(イハれビコ)熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。

*壱-1:ここの 日向 は、「ひゅうが」と読む?

 

通説の神武東征(現在)
 すると 神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった
 この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた
 高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した
 神倭伊波礼毘古命は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大御神と高木神(タカミムスビ)が現れた。
 二神は建御雷(タケミカヅチ)神を呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。
 お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。
 そして高倉下に、「倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。
 目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。
 その大刀は甕布都(ミカフツ)、または布都之御魂(フツノミタマ)と言い、現在は石上(いそのかみ)神宮に鎮座している。

 

通説の神武東征(現在)
 また、高木神の命令で遣わされた八咫(ヤタ)(ガラス)の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。
 宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。
 まず八咫烏を遣わして、神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。
 兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。
 そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。
 そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏大伴連らの祖の道臣(ミチノオミ)命と久米直らの祖の大久米(オオクメ)命を兄宇迦斯に遣わした。
 二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ
 その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出し、バラバラに切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。

 

通説の神武東征(現在)
 忍坂の地では、土雲(ツチグモ)八十(ヤソ)(タケル)が待ち構えていた。
 そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。
 そして合図とともに一斉に打ち殺した。
 その後、目的地である磐余(イワレ)弟師木(オトシキ)を帰順させ兄師木(エシキ)と戦った
 最後に、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)と戦い、そこに邇藝(ニギ)速日(ハヤヒ)が参上
し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた
 こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原(カシハラ)宮で神武天皇として即位した。
 その後、大物主神の子である比売多多良伊須気余(ヒメタタライスケヨ)理比売(リヒメ)を皇后とし日子八井(ヒコヤイ)命、神八井耳(カムヤイミミ)命、神沼(カムヌナ)河耳(カワミミ)命、後の綏靖(スイゼイ)天皇)の三柱の子を生んだ
(「古事記」の神武東征)
(ウィキペディアより)

 以上が、『古事記』にある神武東征についての通説の大筋である。

 

通説の神武東征(現在)
古事記における東征ルート

Ⓒ産経新聞

 産経新聞にある年(2015.11.20)に出ていた古事記における神武東征ルートである。宮崎県の美々津から出て、宇沙に入り、筑紫の岡田宮に入いる。
 それから多祁理宮へ行き、次に高島宮へ行き、速吸門を越え、浪速の渡に入り、この地で戦ったが、敗れたので迂回をする。
 その途中、竈山で五瀬命を葬り、更に行き熊野村に上陸する。そこから現在の奈良県(大和)に入ったというのが、大まかな通説の神武東征のルートである。

 

 戦前(戦中)、昭和十七年文部省発行の神武天皇聖蹟調査報告が出された。 これは、全国の学者を動員して古事記、日本書紀に基づいて調査した場所の報告書である。以下が、その報告書の聖蹟、聖蹟伝説地、聖蹟推考地、未決定地の抜粋である。

通説の神武東征(戦前)
昭和十七年文部省発行
   神武天皇聖蹟調査報告
<聖 蹟>
崗水門(をかのみなと)(福岡県遠賀郡蘆屋町)
難波之碕(大阪府大阪市)
狭野(和歌山県新宮市)
熊野神邑(みわのむら)(和歌山県新宮市)
菟田穿邑(うかちのむら)(奈良県宇陀郡宇賀志村。今の
菟田野町宇賀志付近)
丹生川上(奈良県吉野郡小川村。今の東
吉野村小川)
鵄邑(奈良県生駒郡。今の生駒郡生駒町
の北部から奈良市西端部の旧富雄町付近
にわたる地域)
橿原宮(奈良県高市郡畝傍町。今の橿原
市畝傍町)
竈山(和歌山県和歌山市)

 

通説の神武東征(戦前)
昭和十七年文部省発行
   神武天皇聖蹟調査報告
<聖蹟伝説地>
挨宮(えのみや)・多祁理宮(広島県安芸郡府中町)
高島宮(岡山県児島郡甲浦村。今の岡山
市高島)
孔舎衛(くさゑ)(大阪府中河内郡孔舎衙村。今
の枚岡市日下町)
雄水門(大阪府泉南郡樽井町・雄信達村。
今の泉南郡泉南町樽井・男里付近)
男水門(和歌山県和歌山市)
菟田高倉山(奈良県宇陀郡政始村・神戸
村。今の大陀田町守道付近)
鳥見山中霊畤(奈良県磯城郡城島村・桜
井町。今の桜井市外山付近)
<聖蹟推考地>
菟狭(大分県宇佐郡)

 

通説の神武東征(戦前)
昭和十七年文部省発行
   神武天皇聖蹟調査報告
盾津(大阪府中河内郡孔舎衙村。今の枚
岡市北部)
名草邑(和歌山県海草郡。和歌山市。今
の和歌山市西南部)
磐余(いわれ)(奈良県磯城郡桜井町・安倍村・
香久山村。今の桜井市桜井付近から橿原
市の東端部にかけての地)
狭井河之上(奈良県磯城郡三輪町・織田
村。今の桜井市三輪付近)
<未決定地>
高千穂宮。速吸之門(速吸門)。一柱(あしひとつ)(あがり)
宮。岡田宮。血沼海。天磐盾。熊野荒坂
津。吉野。国見丘。忍坂大室。高佐士野。
腋上(わきがみ)嗛間丘(ほほまのをか)
※『古事記』『日本書紀』に拠る比定地
(通説)

 戦前に神武天皇の聖蹟調査が行われた報告書である。明治から戦前にかけての近世の神武東征の考え方である。この時代においては、神武天皇は完全に正史として扱われている。

 

 実際の神武天皇聖蹟顕彰碑である。

通説の神武東征(戦前)
崗水門(福岡県遠賀郡蘆屋町)
神武天皇聖蹟崗水門顕彰碑
菟狭(大分県宇佐郡)
神武天皇聖蹟菟狭顕彰碑

 聖蹟推考地にある菟狭(大分県宇佐郡)の顕彰碑は、現在の宇佐八幡宮の参道の傍らに建てられている。また、聖蹟にある崗水門(福岡県遠賀郡蘆屋町)は、神武天皇社に建てられている。

 

通説の神武東征(戦前)
鵄邑(奈良県生駒郡)
神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑
菟田穿邑(奈良県宇陀郡宇賀志村)
神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑

 聖蹟にある菟田穿邑(奈良県宇陀郡宇賀志村。今の菟田野町宇賀志付近)と鵄邑(奈良県生駒郡。今の生駒郡生駒町の北部から奈良市西端部の旧富雄町付近にわたる地域)は、奈良県に建てられている。
 神武天皇聖蹟〇〇顕彰碑というのが、各地に建てられている。

 

通説の神武東征(戦後)

 戦後史学の源流 津田左右吉説
神武 ~ 神功は架空 -  実は非科学的

本「古事記及び日本書紀の研究」

 津田左右吉氏は、戦前において神武東遷を否定した為に「不敬」「大逆」の汚名を着せられたが、戦後は、津田左右吉氏の考えを基本にリスタートした。
 したがって、教科書にもつながるが、「神武~神功は架空」という状態に陥いり、戦後の神武天皇に対する考えになった。
 この本の帯に「古代史を科学的に捉え」とあるが、私はこちらが、実は非科学的だと言っている。古事記、日本書紀ともに皇室の先祖が編集された歴史書であるから、神の歴史であっても人皇、神武天皇の歴史であっても我が国の歴史である。
 その歴史が、架空であるという訳はないと思われる。

 

 私は、「神武は筑豊に東征した」という「神武天皇紀」復元の一試行を行った。明治から戦後に至るまでの神武天皇の考え方のすべてに逆らうようにして日本書紀を分析した。

神武は筑豊に東征した
―「神武天皇紀」復元の一試行
 『日本書紀』「神武天皇紀」には、天神ニギハヤヒの降臨譚、奈良県大和に東征したニギハヤヒ直系の王族の大和東征譚(銅鐸文化圏侵入譚)、そして歴史事実としての神武筑豊東征譚とが合成されていると分析し、その仮定に立って神武紀を解読してきた。
 今、ようやく「史実としての神武東征」をまとめて述べるとともに、未だ誰も挑んだことのない「神武天皇紀」復元の試みをなす時がきたように思う。  二〇〇八年六月二〇日
越境としての古代[6] 同時代社

*壱-2:天神ニギハヤヒの降臨譚は、天孫降臨の話ではなく天神降臨の話である。
*壱-3:東征したニギハヤヒ直系の王族の大和東征譚は、考古学的にいうと銅鐸文化圏侵入譚の話である。
*壱-4:歴史事実としての神武筑豊東征譚は、神武は筑豊に東征したという話である。

 2008年6月20日に共著である『越境としての古代[6]』の中で、かなり意気込んで書いた。

 たぶん江戸時代の末期から明治・大正・昭和20年までの神武東征。さらに戦後は、完全に消された神武東征について、「筑豊」にという事が重要であるが、再び現実の神武東征を追究する為に、こちら筑豊の土地に来て20年以上の長きに亘り、現地調査を行ってきた。

 

 次に中国の史書について見てみる。

 新唐書の中に神武天皇が出てくる。この新唐書は、「日本は、(いにしえ)の倭奴なり。」の文句で始まる。唐の時代に書かれた記録であり、ここに粗方「日出處天子」の事が書かれている。
 その王の姓は阿毎(あめ)(または、あま)氏とあり、これは阿毎字多利思北孤の事である。自ら初主は天御中主と号すという。彦瀲に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」をもって号となし、筑紫城に居す。とあるからこれは、日本側の書物がもたらされて書かれているという事が判る。
 彦瀲の子、神武立ち、更めて天皇をもって号となし、治を大和州に徒す。と書かれている。

新唐書の神武天皇
 日本は、(いにしえ)倭奴なり。京師(けいし)を去ること万四千里にして、新羅の東南に(あた)りて海中にあり、島にして居す。
 東西は五月行、南北は三月行。国には城郭なく、木を連ねて柵落(さくらく)となし、草をもって(やね)()く。左右には小島五十余り、皆、自ら国と名づけ、しこうして、これに臣附す。
 本率一人を置き、諸部を検察せしむ。其の俗は女多く、男少なし、文字あり、浮屠(ふと)の法を(たっと)ぶ。その官には十二等あり。
 その王の姓は阿毎(あめ)氏、自ら言う、初主は(あめの)御中主(みなかぬし)と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで(およ)そ三十二世、皆「(みこと)」をもって号となし、筑紫城に居す。
 彦瀲の子、立ち、(あらた)めて天皇をもって号となし、治を大和州(うつ)す。
『新唐書』一〇六〇年成立。北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰。

 

 新唐書は、余りのも纏められていて解りにくくなっている。次に解りやすいのが、私が良く用いる1345年に元の脱脱が撰した宋史の中にある「王年代紀」である。
その「王年代紀」は、984年に東大寺の僧奝然が北宋の太宗に献上した書物である事がわかっている。それを元の脱脱が、宋史に編集したものである。

 初主は、天御中主と號すと始まる。今回は神武天皇に関係する所で、途中の説明は省略して、父親の彦瀲尊まで凡二十三世とあり、新唐書の三十二世と数字がひっくり返っている。実際に名前を数えると二十三世である。
 並に筑紫日向宮に都すと「筑紫」の文句が出てくる。名前を赤字で表記しているのは、近頃の講演では、皆豊国の神としている。彦瀲尊から青字で書いているので、ここから筑紫(または火国)の神になる。
 九州島の西側を青字で表している。九州島の東側が、豊国で赤字で表している。このように色分けして説明をしている。

 彦瀲尊の次が、神武天皇で彦瀲第四子である。大事な点は、筑紫宮から大和州橿原宮に入り居すと書かれている。そして、即位元年が甲寅とある。日本書紀の紀年で換算していくと紀元前667年となる。その年は、周の僖王の時に當るとあるが、実際に調べると周の恵王の時である。
 日本書紀による神武天皇の即位年は、辛酉の年で、甲寅の年は東征開始の年になる。この点は、異なっている。

神代の王の系譜
 其年代紀所記云、初主號天御中主。次曰天村雲尊、其後皆以尊爲號。次天八重雲尊、次天彌聞尊、次天忍勝尊、次贍波尊、次萬魂尊、次利利魂尊、次國狭槌尊、次角龔魂尊、次汲津丹尊、次面垂見尊、次國常立尊、次天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊、次伊弉諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊、次正哉吾勝勝速日天押穂耳尊、次天彦尊、次炎尊、次彦瀲尊、凡二十三世、並都筑紫日向宮
 彦瀲第四子號武天皇、自筑紫宮居大和州橿原宮、即位元年甲寅(前六六七)當周僖(恵)王時也。
(『宋史』一三四五年 元脱脱撰)
「王年代紀」東大寺の僧奝然(ちょうねん)が北宋の太宗に献上した(九八四年)
『日本書紀』では神武の即位は辛酉(かのととり)の年で、(きのえ)(とら)は東征開始の年

 

 宋史・日本国伝の中に書かれている内容は、日本書紀のイデオロギーというか、考え方に基づいて書かれているが、微妙に違う。
 それについて追いかけた時に、日本書紀は壬申の大乱に勝利した天武天皇が、実は筑紫君薩野馬ではなかったかとして、豊君の天智天皇との直接の戦いであったとした。
 壬申の大乱の勝者である筑紫君薩夜麻=天武天皇が、修史を企図する。その編修方針こそ「削偽定実」であったとして、分析の結果が、「豊国の神々と天皇の歴史を削り、筑紫国の神々と天皇の歴史を定める」ことと判明した。
 そして、古事記は藤原京(福原長者原遺跡第二期遺構)の周辺で編まれ、日本書紀は平城京(嘉穂郡桂川町の周辺で編まれたようだと言い始めた。古事記も日本書紀も福岡県で出来たと言っている。

 古事記(豊国の歴史)の時系列を縦糸に、日本書紀の空間軸(筑紫国・火国と豊国)を横糸にして編み直すと、神武天皇の東征というのは、どのような事件となるのか?
 ということで、「神武は筑豊に東征した」というようにかつての記録(文章)を編み直した。

日本書紀の成立(福永説)
 壬申の大乱は豊君の天智天皇筑紫君薩野馬(さちやま)すなわち後の天武天皇との直接の戦いであったとした。
 天智天皇は玄界灘に入水し天武が勝利した。
 勝者天武天皇(=筑紫君薩夜麻)が、修史を企図する。
 その編修方針こそ「削偽定実」であった

 分析の結果は、「豊国の神々と天皇の歴史を削り筑紫国の神々と天皇の歴史を定める」ことと判明した。
 なお、古事記藤原京(福原長者原遺跡第二期遺構)の周辺で編まれ、日本書紀平城京(嘉穂郡桂川町)の周辺で編まれたようだ。
 本講演は、古事記豊国の歴史)の時系列を縦糸に、日本書紀の空間軸(筑紫国豊国)を横糸にして編み直した、福永独自の古代史観(鷹羽の神々から武・卑弥呼・日本武尊・神功皇后までの歴史)を述べるものである。