「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
神武天皇御一代記御絵巻
もう一つの通説である橿原神宮に展示されている「神武天皇御一代記御絵巻」を紹介する。
「一:神武天皇 高千穂宮に御降誕」であるが、神武天皇が高千穂宮で生まれたとは、日本書紀の何処にも書かれていない。神武天皇の出生地については、前回の「壱」で説明したように熊本県山都町斗塩の辺りと考えている。
絵巻にある「四:孔舎衛坂の激戦」の孔舎衛坂は、昭和十七年文部省発行 神武天皇聖蹟調査報告の中でも大阪府中河内郡孔舎衙村。今の枚岡市日下町とされている。
神武天皇は、最初の戦いで敗れたので、紀伊半島を回って熊野灘を通っていく。その熊野灘で嵐に遭ったという事が、日本書紀に書かれている。それで、絵巻に「五:熊野灘の御危難」と描かれている。
熊野で上陸した後、絵巻にある「六:高倉下韴靈の剣を奉り危難を祓ふ」も古事記に書かれている。
「七:八咫烏先導を給はる」に描かれている八咫烏は、人間の姿で背中に翼が生えているので、私のイメージに近い。
「八:道臣命 大久米命 詔を奉じて兄猾を誅す」とある道臣命は、八咫烏一族の一人だと思う。また、大久米命は、菊池の出身と思う。この絵巻の場所も近畿奈良県の事件とされているが、私は、この場所を福岡県田川郡川崎町の出来事だと言っている。
「九:吉野御巡幸と土豪の帰順」についても奈良県の吉野となっているが、私は、この吉野も大分県中津市山国町の吉野と思っている。
「十:丹生の川上朝原の祭」の場所についても川崎町の出来事で、橿原神宮に飾っている絵のように奈良県の出来事ではないと思う。
「十一:國見丘の戦い」の場所については、何処ともハッキリ比定されていないが、奈良県の何処かという事になっている。この國見丘について私は、赤村の岩石山に比定している。
「十二:忍坂の大室に八十梟帥を舞ひ打つ」については、この講演でも詳しく説明するが、これも奈良県の出来事では無く、佐賀県の吉野ケ里遺跡での出来事にあて直している。
最終決戦である「十三:登美の瑞光(金鵄)」である。戦前は、金鵄勲章の名で名高い金鵄で、金色に輝く鵄が現れて神武天皇軍を助けたという故事である。
これも橿原神宮の側では、奈良県の何処かの場所という事になっている。
最終的に「十四:饒速日尊 長髄彦を誅して帰順」というのが、通説である。
敵を滅ぼしたところで「十五:奠都と宮殿造營」となる。これが、橿原宮である。
橿原宮の近くで「十六:立皇后」である。媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃に迎える。
橿原宮で即位したという事で「十七:御即位禮」である。
敵を随分と殺戮したので「十八:鳥見の山中の靈畤」で滅ぼした敵の御霊を祭ったいう事も日本書紀に書かれている。
橿原神宮の御一代記御絵巻は、「十九 天皇崩御」に至る。
神武天皇御一代記という事で、神武天皇がなさった業績をこの言葉に代表して絵巻は終わる。「二十:八紘一宇(八紘を掩ひて宇と為さむ)」である。
戦前には、よく使われた。大日本帝国が戦争中に大東亜共栄圏を作るために「八紘を掩ひて宇と為さむ」ということで、東アジアを全部統一して天皇の下に五族協和の国を造っていくというスローガンは、神武天皇がお始めになったとこの絵巻は二十で終わる。