「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「弐」)

神武東征前史 日向 → 筑紫(初期福永説)

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

一 神武天皇 高千穂宮に御降誕

一 神武天皇 高千穂宮に御降誕

 橿原神宮にある神武天皇御一代記御絵巻の「一:神武天皇 高千穂宮に御降誕」というのは、創作である。神武天皇が、高千穂宮で誕生したという事は、日本書紀の何処にも書かれていない。

 

神武東征前史
神武の出生地
 (かむ)日本(やまと)磐余(いわれ)(ひこの)天皇(すめらみこと)(いみな)(ひこ)()()()()
 (ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鷀()草葺(がや)不合(ふきあへずの)(みこと)の第四子也。
 
 母は玉依姫(たまよりひめ)と曰ひ、海童(わたつみ)少女(むすめ)也。
 
 天皇生まれながらにして明達(さか)し。(こころ)礭如(かた)し。年十五にして立ちて(ひつぎの)(みこ)と爲る。
 長じて日向國吾田(あたの)(むら)吾平津媛(あひらつひめ)を娶りて妃と爲し、手研(たぎし)(みみの)(みこと)を生む。
(『日本書紀』神武天皇紀)

 神武東征「壱」に戻るようであるが、「神武東征前史 神武の出生地」のスライドにある「年十五にして立ちて太子(ひつぎのみこ)と爲る」という年十五が、この「弐」の講演で重要なキーになる。

 

神武東征前史
神武の出生地
熊本県山都町斗塩の神武の生誕地伝承
神武天皇塚
神武天皇塚

神武天皇塚の全景
   Ⓒ上田喜四郎

神武天皇塚

Ⓒひぼろぎ逍遥

 神武の出生地についても通説の高千穂宮とは違い、熊本県山都町斗塩の辺りで誕生したのではないかという事を地元の伝承から抜き出した。
 今は、この神武天皇塚を幣立神宮が祭っている。

 

神武東征前史
日向 → 筑紫
 (かむ)(やまと)伊波禮毘古(いはれびこ)の命と、其の伊呂兄(いろせ)(いつ)()の命と二た柱、高千穗の宮に()しまして(はか)りて、「何地(いずこ)()しまさば、平けく天の下の(まつりごと)を聞こし()さん。
 (なほ)(ひむがし)に行かんと思ふ」と云ひて、即ち日向(ひむき)より()ちて筑紫(ちくし)幸御(いでま)しき
(『古事記』神武天皇)
免田式土器の分布
「免田式土器」

 「壱」で出した「神武東征前史 日向→筑紫」のスライドにある「日向」は、山鹿市の日向(ひむき)である。その日向から筑紫へ出て行った。
 スライドの地図は、吉田正一氏がよく取り上げる免田式土器(ジョッキ形土器など)の分布にあるように菊池・山鹿から筑紫へと広がっている。
 この地図を見た時に吉野ヶ里があるが、そこへは、免田式土器は広がっていない点について、随分前から着目していた。

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十二 忍坂の大室に八十梟帥を舞ひ打つ

十二 忍坂の大室に八十梟帥を舞ひ打つ

 通説では、奈良県に入った段階で絵巻にある「十二:忍坂の大室に八十梟帥を舞ひ打つ」となる。

 

神武東征前史
お佐賀の大室屋
 神武前紀戊午(一一八)年冬十月、八十梟帥征討戦の歌謡の新解釈
 於佐箇廼 於朋務露夜珥 比苔瑳破而 異離烏利苔毛 比苔瑳破而 枳伊離烏利苔毛 瀰都瀰都志 倶梅能固邏餓 勾騖都都伊 異志都々伊毛智 于智弖之夜莽務
 お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ
【口訳】
 お佐賀の大室屋に、人が多勢入っていようとも、人が多勢来て入っていようとも、勢いの強い来目の者たちが、頭椎・石椎でもって撃ち殺してしまおう。
お佐賀の大室屋(吉野ヶ里)

 その「忍坂の大室」に対して、それは「お佐嘉の大室屋」という事で、吉野ヶ里遺跡の出来事であり、ここでの戦いである。
 神武の父親である鸕鷀草葺不合尊が、吉野ヶ里の場所を攻撃し攻め落とした時の話が、神武天皇紀の歌謡の中にあると前回話した。

 倭歌の中にある「来目の子ら」は、菊池市の「久米」で良い。久米八幡宮の久米で良い。

 吉野ヶ里を総攻撃して、遂に滅ぼしたというその時の倭歌が、神武天皇紀の戊午年の記事の中にある。戊午年の実年を計算すると、西暦118年ではないかと話をした。

 

神武東征前史
初期福永説
前一四
 饒速日、豐葦原瑞穗國の笠置山に降臨。瓊々杵、日向のクシフル岳に降臨。
天満倭国=倭奴国が成立する。
 饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲皇都を建設。天物部八十氏が筑豊の山や島を領有し、「山島に居し、分かれて百余国を為す」。
 瓊々杵は博多湾岸を領有し、百余国の一角を形成する。
後五七
 倭奴国王、漢光武帝に遣使。金印を受く。天孫本紀に云う天香語山命か
後七〇
 磐余彦誕生。後の神武である。
後八三
 お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)陥落。
 鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。
後八四
 磐余彦(年十五)立ちて太子と為る。

 ここにある年表は、古くから出しているが、紀元前14年の饒速日の降臨からの倭奴国の事を書いている。その後の後83年にお佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)陥落。鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。を出している。
 今回新しく追加したのが、後70年の磐余彦誕生である。したがって、先ほど話した「年十五太子と為る」が、お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)陥落の翌年の後84年になる。
 この年十五というのが、この「弐」の講演の着目点である。