「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
神武東征前史 日向 → 筑紫(初期福永説)
橿原神宮にある神武天皇御一代記御絵巻の「一:神武天皇 高千穂宮に御降誕」というのは、創作である。神武天皇が、高千穂宮で誕生したという事は、日本書紀の何処にも書かれていない。
神武東征「壱」に戻るようであるが、「神武東征前史 神武の出生地」のスライドにある「年十五にして立ちて太子と爲る」という年十五が、この「弐」の講演で重要なキーになる。
神武の出生地についても通説の高千穂宮とは違い、熊本県山都町斗塩の辺りで誕生したのではないかという事を地元の伝承から抜き出した。
今は、この神武天皇塚を幣立神宮が祭っている。
「壱」で出した「神武東征前史 日向→筑紫」のスライドにある「日向」は、山鹿市の日向である。その日向から筑紫へ出て行った。
スライドの地図は、吉田正一氏がよく取り上げる免田式土器(ジョッキ形土器など)の分布にあるように菊池・山鹿から筑紫へと広がっている。
この地図を見た時に吉野ヶ里があるが、そこへは、免田式土器は広がっていない点について、随分前から着目していた。
通説では、奈良県に入った段階で絵巻にある「十二:忍坂の大室に八十梟帥を舞ひ打つ」となる。
その「忍坂の大室」に対して、それは「お佐嘉の大室屋」という事で、吉野ヶ里遺跡の出来事であり、ここでの戦いである。
神武の父親である鸕鷀草葺不合尊が、吉野ヶ里の場所を攻撃し攻め落とした時の話が、神武天皇紀の歌謡の中にあると前回話した。
倭歌の中にある「来目の子ら」は、菊池市の「久米」で良い。久米八幡宮の久米で良い。
吉野ヶ里を総攻撃して、遂に滅ぼしたというその時の倭歌が、神武天皇紀の戊午年の記事の中にある。戊午年の実年を計算すると、西暦118年ではないかと話をした。
ここにある年表は、古くから出しているが、紀元前14年の饒速日の降臨からの倭奴国の事を書いている。その後の後83年にお佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)陥落。鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。を出している。
今回新しく追加したのが、後70年の磐余彦誕生である。したがって、先ほど話した「年十五で太子と為る」が、お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)陥落の翌年の後84年になる。
この年十五というのが、この「弐」の講演の着目点である。