「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
第二次神武東征
(第二次東征発向、「日を背にして戦う神策」を実行。菟狹への大迂回)
神武東征は、福岡県の中での出来事だという仮説である。神武天皇は、現在の奈良県(大和)には行っていないから、竈山の高千穂の宮で3年間再軍備をした。
戊午(一一八年)に神武は再び東征に趣いたようだというのが、私の分析である。これを「第二次東征発向」と名付けている。
この「第二次東征発向」という事については、大宰府の宝満山(竈門神社)の由緒が残されている。この由緒にある「皇都を中州に定めん」の「中州」の読みは「なかす」ではなく「なかつくに」であり、ハッキリ言えば豐葦原中洲である。
ここに書かれている竈門神社の由緒を見つけ出したように福岡県のあちらこちらを巡っていく間に神武東征は、第一次と第二次があったことに気が付いた。
第一次東征に失敗し、筑紫に帰ってきた。そして宝満山で3年間再軍備してから第二次東征に向かう。したがって、神武は父鸕鶿草葺不合尊とともに肥前などを平定して、九州島の西半分を制圧した勢力図のままである。
神武は、九州島の東半分を領有する漢倭奴國(豐葦原瑞穗國、豐葦原中洲)へ再び攻め入るという話である。第二次東征である。
神武天皇は、自分の領地である筑紫側を全く守らないで、東征に出かけたのでは無い。家来に筑紫を守らせているから、神武天皇は筑紫(九州)から完全に離れていないという事が、大宰府に残されたこの伝承からでも明らかである。
今日の第二次神武東征の前半部の内容を日本書紀の要約と求菩提山縁起という現地伝承からまとめた。中ほどの内容は、日本書紀には書かれていない事が、現地の伝承では詳しく出てくるという大事な例である。
日本書紀に「皇師中洲に趣かんと欲す」とあり、竈山神社の由緒にあった「中州」と「氵」だ付くか付かないの違いで同じく「なかつくに」である。
ここに不思議な事がある。橿原神宮の神武天皇御一代記御絵巻の「三:寶船美々津御解纜 速吸之門に至る」である。
寶船で美々津から御解纜(舟のともづなを解いて出発)とあるが、古事記・日本書紀・先代旧事本紀の何処にも「美々津」という場所の記述は出てこない。
何故、古事記・日本書紀・先代旧事本紀に記述されていない宮崎県の地名が出てくるのか? この事をずーっと不思議に思っていた。
「壱」で産経新聞の記事「古事記における東征ルート」の地図にも「美々津」が書かれている。
実際に宮崎県の美々津にも旅をして現地伝承を確かめている。この伝承が、何故か知らないが橿原神宮まで伝わってる。また、戦前の日本、前述の産経新聞の地図にも「美々津」が入っている。
戦前の日本で「美々津」という地名が、神武東征の船出の地としてハッキリ現われているのかは、私にとっても定かではない。
美々津を出港したかについては、定かではない。宮崎県の美々津に残された伝承である。
私は、神武天皇は奈良県まで行っていない。九州止まりで、東征は筑紫国から豊国を征伐されたという私の観点からいけば、宮崎県と同じように豊前国の伝承も取り上げないとちょっと不公平ではないかという考えを以前から持っている。
「速吸之門に至る」という日本書紀の記事に「國神」とある。したがって、もう豊前の近くである。まだ、豊後であるが、豊前と豊後の境辺りの事である。自分自身で「國神」と名乗っている。この神は、大きく言えば私がいつも唱えている鷹羽国の神である。これを日本書紀では、國神と表現している。
日本書紀にある「速吸之門」の場所は、わかっている。佐賀関の速吸日女神社のところである。その速吸日女神社社伝に「祓戸の神(速吸日女)を奉り」とあるから、イコール瀬織津姫であり、鷹羽国で物凄く重要な神である。
速吸日女神社社伝には、日本書紀を同様にここから珍彦が神武天皇にお供した事が残っている。
速吸日女神社の祭神である八十禍津日神は、日本書紀に出てくる。瀬織津姫のことである。速吸日女、八十禍津日神、瀬織津姫と名前は違うが同じ女神を指している。
「神武第一次東征失敗」の地図で、もう一度東征ルートを確認して見る。第一次東征では、博多湾方面から直接、遠賀へ行き戦って敗れたので、博多湾(筑紫)へ戻ってきた。
それから筑紫で3年間再軍備をして、日向の美々津を出発したことになっているから、神武の再軍備した軍隊は、一旦故郷である菊池・山鹿へ戻る。
そして菊池・山鹿から熊本と宮崎の何処かを横断して、美々津に出たと考えざるを得ない。その美々津から寶船で佐賀関(速吸之門)までやって来た。
神武が、向かおうとして中洲(倭奴國)の中心が、田川から鞍手の土地であれば、東側へ回り込んで日を背にして東から西に向かって攻める。
神武天皇が考えた事を私は、「菟狹への大迂回」と名付けている。速吸門(豊予海峡)を北上して菟狹へ入る。そこから倭奴國を目指した。
「菟狹への大迂回」の日本書紀の記事に「筑紫國の菟狹に至る」と書かれているが、これはどう考えても日本書紀が710年に天武天皇の王朝で作られたと仮定するとこれは、「豊國の菟狹に至る」である。
何しろ宇佐神宮は、豊前の地にあるという事は、「筑紫国」というのは、意図的な書き換えであると断じざるを得ない。だから、原文にある筑紫國を消して、ハッキリと豊国と書いた。そうしないと神武東征という東征が生きてこない。
日本書紀で神武天皇が入った所を「菟狹の川上に一柱騰宮」とある。神武天皇即位前紀の原文に読みを「一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮」と万葉仮名でちゃんと書かれている。
菟狹津彦・菟狹津媛が神武天皇を迎えた一柱騰宮の場所が、何処にあったかを宇佐で探した。都麻垣宮と書く現在の安心院の妻垣神社に行き当った。現地の人は、「つまがけ神社」ともいう。
この妻垣神社まで出かけて行き、禰宜である妻垣さんとお会いした。その時に平成14年に妻垣神社の本殿から出てきた「都麻垣宮旧事記」を見せて頂いた。その原文は、勿論墨で書かれていて白文であった。
その原文をお貸ししても良いと言われて、これは、コピーであっても当社伝の当社の原本と考えているので活字にして欲しいと頼まれた。そして、活字に直せば、それをどこへ公開しても構わないと言われている。
原文の形通りに活字にした。そこにある割注もしっかり付けた。それを書き下し文(読み下し文)に改めて、口語訳を付けた。その都麻垣宮旧事記の書く下し文の一部である。中略の部分は、ほぼ日本書紀と同じ内容である。
都麻垣宮旧事記の口語訳で見てみる。
口語約の続きに、神ご自身が語るには、共鑰山の3つの石に足跡を残しながら登ったと書いている。それをご覧になった神武天皇がこれは、私の母后(玉依姫)の霊であるぞと臣下におっしゃる。そこを臣下が見た。その3つの石の足跡が、今も残っているいうように社伝には書いてあった。
神武天皇が入った一柱騰宮の場所は、宇佐神宮では無かった。ここに載せた写真は、妻垣神社が写真家に依頼して撮影した写真でこの文にあうような情景である。
妻垣神社の上宮・下宮ともに比咩大神が最初に祭られている。この比咩大神は、どう考えても田川と同じく瀬織津姫の事である。
古図は、江戸時代に書かれたものだろうか? 古図の手前側に描かれている山が共鑰山であり、その頂上付近に女神が足跡を付けたという3つ目の石がある。原文では、絶頂の石と書かれている。ここを現在、妻垣神社では、「足一騰宮」と言っている。
しかし、足一騰宮は古図にあるように神社全体ではなかったか。というのは、川がある側から登ってくると断崖絶壁である。そこに弥生時代の梯子を掛ける。その梯子は一本柱の梯子であり、足を掛けるところを削っただけであるから、足の爪先を掛ける程度の梯子である。
(以下略)