「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「肆」)

第二次神武東征
(第二次東征発向、「日を背にして戦う神策」を実行。菟狹への大迂回)

神武第一次東征失敗
 時間的な整序を考察する。
 甲寅(きのえとら)(一一四年)冬十月に糸島水道を発進。十一月に岡水門に入る。
 軍備を整えて、乙卯(きのとう)(一一五年)の春三月、古遠賀湾を遡上る。
 夏四月、長髄彦軍と激突、五瀬命負傷、敗北、草香津に帰還す。
 五月、五瀬命死去、竈山(宝満山)に葬る。
 三年積る間に、舟檝(ふね)を脩へて、兵食を蓄へて、将に一たび挙げて天下を平けむと欲す。
 吉備の國高嶋宮ではなく、竈山の高千穂の宮に、雌伏三年。戊午(つちのえうま)(一一八年)春、神武は再び東征に趣いたようだ。
 私の分析した、第二次東征発向である。吉備の国の記述はすこぶる怪しいが、三年間にわたる再軍備は史実と考えられ、次に繋がる。
神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給ふに及び天皇諸皇子と共に此の山に登り給ひて、躬親から御胸鏡を榊木の枝に取り掛け嚴の太玉串を刺立て建國の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ。」     (竈門神社由緒)
神武第二次東征の祈願

 神武東征は、福岡県の中での出来事だという仮説である。神武天皇は、現在の奈良県(大和)には行っていないから、竈山の高千穂の宮で3年間再軍備をした。
 戊午(一一八年)に神武は再び東征に趣いたようだというのが、私の分析である。これを「第二次東征発向」と名付けている。

 この「第二次東征発向」という事については、大宰府の宝満山(竈門神社)の由緒が残されている。この由緒にある「皇都を中州に定めん」の「中州」の読みは「なかす」ではなく「なかつくに」であり、ハッキリ言えば豐葦原中洲である。
 ここに書かれている竈門神社の由緒を見つけ出したように福岡県のあちらこちらを巡っていく間に神武東征は、第一次と第二次があったことに気が付いた。

 

神武第一次東征失敗
神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給ふに及び天皇諸皇子と共に此の山に登り給ひて、躬親から御胸鏡を榊木の枝に取り掛け嚴の太玉串を刺立て建國の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ、されば天皇の大偉業は玉依姫神の御教化に因る事大なるものなり。」神武第二次東征の祈願
 神武東征「肆」につづく
西洲(日向國)と豐葦原瑞穗國(倭奴国)

西洲
(日向國)

筑紫

日向

豐葦原瑞穗國
 (倭奴國)

 第一次東征に失敗し、筑紫に帰ってきた。そして宝満山で3年間再軍備してから第二次東征に向かう。したがって、神武は父鸕鶿草葺不合尊とともに肥前などを平定して、九州島の西半分を制圧した勢力図のままである。
 神武は、九州島の東半分を領有する漢倭奴國(豐葦原瑞穗國、豐葦原中洲)へ再び攻め入るという話である。第二次東征である。

 

 次の「伍」のところで話をする射手引神社社伝に田中熊別という人物が、筑紫に凱旋する神武を迎えたという記事が出てくる。
 大宰府にその田中熊別が祭られた神社があるという情報が寄せられた。その神社が王城(おうぎ)神社である。

第二次東征
 九州古代史の会の恵内慧瑞子氏から、大宰府田中熊別の祭られた神社が現存するとの情報が寄せられた。
 そこは「王城(おうぎ)神社」、太宰府市大字通古賀一二〇三番地に鎮座する。
『太宰府伝説の旅』(〈財〉古都大宰府を守る会発行)にこうある。
 神武東征の折、四王寺山の上に城をかまえて、大野の県主田中熊別というものを置いて城を守らせました。
 天皇の城が置かれたので時の人は王城山といったそうです。
 またこの嶺に武甕槌命と事代主命を祀り、東夷を平らげんことを祈らせました。
 第二次東征発向の場所と様子を述べた貴重な伝承である。

 神武天皇は、自分の領地である筑紫側を全く守らないで、東征に出かけたのでは無い。家来に筑紫を守らせているから、神武天皇は筑紫(九州)から完全に離れていないという事が、大宰府に残されたこの伝承からでも明らかである。

 

 今日の第二次神武東征の前半部の内容を日本書紀の要約と求菩提(くぼて)(さん)縁起という現地伝承からまとめた。中ほどの内容は、日本書紀には書かれていない事が、現地の伝承では詳しく出てくるという大事な例である。

第二次東征
一一八年春二月、第二次神武東征開始。「日を背にし
 て戦う神策」を実行に移す。
  日向から速吸門豊予海峡)に至り、珍彦を道案
 内とする。菟狹安心院妻垣神社)に至り、一柱騰
 宮
に入る。(日本書紀要約)
  数ヶ月、
 野嶽
求菩提
 山
)に通い、
 「大天狗
 (豊前坊)及
 び「八咫烏
 (求菩提山八
 天狗
)一族と
 同盟を結ぶ。
  この間、
 野の国樔(玖
 珠)
部らを巡
 撫。
 六月、
天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。
 既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
求菩提山八天狗像(頭八咫烏)

頭八咫烏

求菩提山八天狗像

 日本書紀に「皇師中洲に趣かんと欲す」とあり、竈山神社の由緒にあった「中州」と「氵」だ付くか付かないの違いで同じく「なかつくに」である。

 

 ここに不思議な事がある。橿原神宮の神武天皇御一代記御絵巻の「三:寶船美々津御解纜 速吸之門に至る」である。

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

三 寶船美々津御解纜 速吸之門に至る

三 寶船美々津御解纜 速吸之門に至る

 寶船で美々津から御解纜(舟のともづなを解いて出発)とあるが、古事記・日本書紀・先代旧事本紀の何処にも「美々津」という場所の記述は出てこない。
 何故、古事記・日本書紀・先代旧事本紀に記述されていない宮崎県の地名が出てくるのか? この事をずーっと不思議に思っていた。
 「壱」で産経新聞の記事「古事記における東征ルート」の地図にも「美々津」が書かれている。

 

 実際に宮崎県の美々津にも旅をして現地伝承を確かめている。この伝承が、何故か知らないが橿原神宮まで伝わってる。また、戦前の日本、前述の産経新聞の地図にも「美々津」が入っている。
 戦前の日本で「美々津」という地名が、神武東征の船出の地としてハッキリ現われているのかは、私にとっても定かではない。

第二次神武東征
美々津出港
 日向市・美々津港の右岸に立磐神社という社があり、境内に1つの岩が保存されている。
 神武天皇が日向から東方に向かって船出するとき、この岩の上に立って指図したところと伝えられる。
 神武天皇は諸皇子や大勢の船軍(ふないくさ)を率いて美々津で出港の準備をした。
 「日本書紀」では、出発はその年(甲寅)の冬10月5日とされているが、美々津のお船出伝説では、8月朔日(旧暦8月1日)のこととしている。
 当初予定のときは天候が悪く、船出を見合わせたが、天候が回復したので、出港を8月1日の夜明けに決めた。
 神武天皇は慌ただしく出発の用意をする中で、着物のほころびに気付いた。
 しかし、衣服を脱いで繕う暇がなかったので、立ったままでお付きの者が縫った。
 美々津のことを、別に「立縫いの里」と呼ぶのはこのことに由来しているという。

 

第二次神武東征
美々津出港
 土地の人々は神武天皇の船出に合わせて、もちを作る用意をしていたが、出発が早くなったので、間にあわなくなった。
 それで急いで、もちとあんを一緒についた「つき入れ」を作って差し上げた。
 以来、これは美々津の名物となっている。
 また、早朝の出発のために寝ている人々を起こすことになって「起きよ、起きよ」と家々を起こして回った。
 このことが伝承されて、美々津では8月1日に「おきよ祭り」が行われる。
 神武天皇の船軍は、沖の七ツ(ばえ)と一ツ(ばえ)の間を通っていった。
 この船軍は再び国に帰ることはなかったので、その後この岩礁の間を船で通る者はいない。
(甲斐亮典)

 

第二次神武東征
美々津出港
立磐神社

 神武天皇は45歳の時、東を目指して美々津の港からお舟出をしたといいます。
 神社には神武天皇らを祀り、訪れた際に腰掛けたとされる岩が境内に残っています。周辺には、急ぎの出立のため、立ったまま衣服を縫ったという「立縫」という地名もあります。
 潮や風の影響で旧暦8月1日の夜明けに出航することになり、家々を「おきよ、おきよ」と起こして回ったことから今も「おきよ祭り」が行われています。

Ⓒ宮崎 神話の源流へ
 立磐神社

 

 美々津を出港したかについては、定かではない。宮崎県の美々津に残された伝承である。

 私は、神武天皇は奈良県まで行っていない。九州止まりで、東征は筑紫国から豊国を征伐されたという私の観点からいけば、宮崎県と同じように豊前国の伝承も取り上げないとちょっと不公平ではないかという考えを以前から持っている。

第二次神武東征
速吸之門に至る
 戊午年の春二月の丁酉の朔丁未に、皇師遂に東にゆく。舳艫(ともへ)相接げり。
 速吸之門(はやすひのと)に至る。時に(ひとり)漁人(あま)有り、(こぶね)に乘りて至る。天皇之を()して、因りて問ひて曰く、「汝は誰そ」。(こた)へて曰く、「臣は是れ國神。名は珍彦(うづひこ)と曰ふ。」と。又問ひて曰く、「汝は能く我を導かんや。」と。對へて曰く、「導びかん。」と。天皇、勅して漁人に(しひ)(さお)が末を授け、(とら)しめて皇舟(みふね)()()れ、以ちて海の導者(みちびきひと)と爲す。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦(しひねつひこ)と爲す。
(日本書紀 神武天皇即位前紀)
 紀元前六六七年に、神武天皇が東征の途中で速吸の瀬戸(豊予海峡)を通りかかった折りに、海女の姉妹の黒砂(いさご)真砂(まさご)の二神が、潮の流れを静めるために海底から大蛸が護っていた神剣を取り上げて天皇に奉献したところ、神武天皇自らがこの剣を御神体として、祓戸(はらへど)の神(速吸日女)を奉り、建国を請願したのが始まりであるとされる。
(速吸日女神社社伝)

 「速吸之門に至る」という日本書紀の記事に「國神(くにつかみ)」とある。したがって、もう豊前の近くである。まだ、豊後であるが、豊前と豊後の境辺りの事である。自分自身で「國神」と名乗っている。この神は、大きく言えば私がいつも唱えている鷹羽国の神である。これを日本書紀では、國神と表現している。

 日本書紀にある「速吸之門」の場所は、わかっている。佐賀関の速吸日女神社のところである。その速吸日女神社社伝に「祓戸(はらへど)の神(速吸日女)を奉り」とあるから、イコール瀬織津姫であり、鷹羽国で物凄く重要な神である。
 速吸日女神社社伝には、日本書紀を同様にここから珍彦が神武天皇にお供した事が残っている。

 

 速吸日女神社の祭神である八十禍津日神(やそまがつひのかみ)は、日本書紀に出てくる。瀬織津姫のことである。速吸日女、八十禍津日神、瀬織津姫と名前は違うが同じ女神を指している。

速吸日女神社の祭神
 八十禍津日神(やそまがつひのかみ) = 瀬織津姫
速吸日女神社
速吸日女神社の「蛸の絵」

 当社では、神剣を(タコ)が長年守護してきたものと考え、「蛸の絵」を奉納して、蛸を一定期間(最低でも半年)蛸を食べずに願い事をすると、必ず願い事が成就するという蛸断祈願という珍しい祈願法を用いる神社となっている。

 

 「神武第一次東征失敗」の地図で、もう一度東征ルートを確認して見る。第一次東征では、博多湾方面から直接、遠賀へ行き戦って敗れたので、博多湾(筑紫)へ戻ってきた。
 それから筑紫で3年間再軍備をして、日向の美々津を出発したことになっているから、神武の再軍備した軍隊は、一旦故郷である菊池・山鹿へ戻る。
 そして菊池・山鹿から熊本と宮崎の何処かを横断して、美々津に出たと考えざるを得ない。その美々津から寶船で佐賀関(速吸之門)までやって来た。

 神武が、向かおうとして中洲(倭奴國)の中心が、田川から鞍手の土地であれば、東側へ回り込んで日を背にして東から西に向かって攻める。
 神武天皇が考えた事を私は、「菟狹への大迂回」と名付けている。速吸門(豊予海峡)を北上して菟狹へ入る。そこから倭奴國を目指した。

第二次神武東征
菟狹への大迂回
 行きて筑紫國「豐國」菟狹(うさ)に至る。
 時に菟狹國造(おや)有り。(なづ)けて菟狹津彦菟狹津媛と曰ふ。乃ち菟狹の川上一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造りて(みあへ)奉る。
(日本書紀 神武天皇即位前紀)
 當宮媛大御神(ひめおほみかみ)垂跡(すいじゃく)なり。(中略)
 天皇(あした)四方(よも)()(のたま)はく、「嗚呼(ああ)、靈なるかな、此の地や。連山(れんざん)(よも)に廻り長城のごとし。
 一河(おもむろ)に流れ漣波(さざなみ)浄し。氛霧(ふんむ)地に布き、玉露天に(わた)る。(まこと)に豊饒の境なり。
 且つ共鑰山は其の中央に居りて衆峯に秀づ。朕母后の靈を以て、(ここ)に祭るべし。
 乃ち原廟を建てて自ら祭祠に臨む。忽ち山岳動揺し、河水奔流濻濩(たいくわく)して靈石を淵中に顕はす。神女石の上に在りて神と曰ふ。
(「都麻垣宮旧事記」現 安心院(あじむ)の妻垣神社)

 「菟狹への大迂回」の日本書紀の記事に「筑紫國の菟狹に至る」と書かれているが、これはどう考えても日本書紀が710年に天武天皇の王朝で作られたと仮定するとこれは、「豊國の菟狹に至る」である。
 何しろ宇佐神宮は、豊前の地にあるという事は、「筑紫国」というのは、意図的な書き換えであると断じざるを得ない。だから、原文にある筑紫國を消して、ハッキリと豊国と書いた。そうしないと神武東征という東征が生きてこない。

 日本書紀で神武天皇が入った所を「菟狹の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)」とある。神武天皇即位前紀の原文に読みを「一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮」と万葉仮名でちゃんと書かれている。

 菟狹津彦・菟狹津媛が神武天皇を迎えた一柱騰宮の場所が、何処にあったかを宇佐で探した。都麻垣宮と書く現在の安心院の妻垣(つまがき)神社に行き当った。現地の人は、「つまがけ神社」ともいう。

 

 この妻垣神社まで出かけて行き、禰宜(ねぎ)である妻垣(つまがき)さんとお会いした。その時に平成14年に妻垣神社の本殿から出てきた「都麻垣宮旧事記」を見せて頂いた。その原文は、勿論墨で書かれていて白文であった。
 その原文をお貸ししても良いと言われて、これは、コピーであっても当社伝の当社の原本と考えているので活字にして欲しいと頼まれた。そして、活字に直せば、それをどこへ公開しても構わないと言われている。
 原文の形通りに活字にした。そこにある割注もしっかり付けた。それを書き下し文(読み下し文)に改めて、口語訳を付けた。その都麻垣宮旧事記の書く下し文の一部である。中略の部分は、ほぼ日本書紀と同じ内容である。

都麻垣宮旧事記

 

 都麻垣宮旧事記の口語訳で見てみる。

都麻垣宮旧事記
 当宮は媛大御神の出現なさった地である。
 (中略)
 天皇が朝に四方をご覧になっておっしゃるには、「ああ、霊妙であるなあ、この地は。連山が四方に廻りちょうど長城のようだ。一筋の河が静かに流れさざ波が清らかだ。朝靄が地に広く行き渡り、玉のような露が天に広がる。まことに豊饒の地域である。その上、共鑰山はその中央にあって、多くの峰よりぬきんでている。朕は母后の霊をここに祭るつ
もりだ。」と。
 そこで原廟を
建ててご自身で
祭祀に臨まれた。
 たちまち山岳
が動き揺らぎ、
河の水が奔流し
土砂が浮き動い
て、霊石を淵の
中に顕わした。
 神女が石の上
におわして神と
おっしゃる
妻垣神社

Ⓒ妻垣神社

 口語約の続きに、神ご自身が語るには、共鑰山の3つの石に足跡を残しながら登ったと書いている。それをご覧になった神武天皇がこれは、私の母后(玉依姫)の霊であるぞと臣下におっしゃる。そこを臣下が見た。その3つの石の足跡が、今も残っているいうように社伝には書いてあった。

 神武天皇が入った一柱騰宮の場所は、宇佐神宮では無かった。ここに載せた写真は、妻垣神社が写真家に依頼して撮影した写真でこの文にあうような情景である。

 

 妻垣神社の上宮・下宮ともに比咩大神が最初に祭られている。この比咩大神は、どう考えても田川と同じく瀬織津姫の事である。
 古図は、江戸時代に書かれたものだろうか? 古図の手前側に描かれている山が共鑰山であり、その頂上付近に女神が足跡を付けたという3つ目の石がある。原文では、絶頂の石と書かれている。ここを現在、妻垣神社では、「足一騰宮」と言っている。
 しかし、足一騰宮は古図にあるように神社全体ではなかったか。というのは、川がある側から登ってくると断崖絶壁である。そこに弥生時代の梯子を掛ける。その梯子は一本柱の梯子であり、足を掛けるところを削っただけであるから、足の爪先(つまさき)を掛ける程度の梯子である。  (以下略)

女神の足跡の残る絶頂
の石 「足一騰宮」
妻垣神社
妻垣神社
足一騰宮

Ⓒ妻垣神社

上宮 比咩大神=瀬織津姫神

 

通説の神武東征(戦前)
菟狭(大分県宇佐郡)宇佐神宮参道
神武天皇聖蹟菟狭顕彰碑
安心院の妻垣神社 松本清張氏

福永説:菟狭(大分県宇佐郡)は
安心院の妻垣神社」であった。
※ 松本清張氏が先達