「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「肆」)

第二次神武東征(菟田縣の血戦)

第二次東征
菟田縣の血戦
  七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
  八月、菟田の穿(うかちの)(むら)(川崎町)に至る。菟田
  縣
の血戦に勝つ。
  九月、菟田川の朝原に顕齋をなす。
(日本書紀)
中元寺川・甌穴群

菟田の穿(うかちの)(むら)
川崎町
天然記念物 中元寺川・甌穴

*1

:菟田の穿(うかちの)(むら)の「穿」は、「穴」を意味すると考えて探していた。川崎町の天然記念物である中元寺川の甌穴群が、「穿」だと気づき穿(うかちの)(むら)が解った。

 

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

*2

:上記の絵の通り「山を蹈み啓けて行きて、乃ちの向ひの尋に、仰ぎ視て追ふ。」

 

第二次東征
菟田縣の血戦
 遂に菟田(うだの)(しもつ)(こほりあがた)に達す。因りて其の至りましし處を(なづ)けて菟田(うだの)穿(うかちの)(むら)と曰ふ。時に、(みことのり)して日臣命(ひのおみのみこと)()めて曰く、「汝、忠にして(また)勇あり。加へて()(みちびき)の功有り。(ここ)を以ちて、汝が名を改め道臣(みちのおみ)と爲す」とのたまふ。
 秋八月(はつき)甲午(きのえうま)(ついたち)乙未(きのとひつじ)に、天皇(すめらみこと)()(うかし)及び弟猾(おとうかし)()さしむ。
 是の兩人は、菟田(うだの)(あがた)魁帥(ひとごのかみ)也。時に()(うかし)は來たらず、弟猾(おとうかし)は即ち詣い至る。
 因りて軍門を拜みて告げて曰さく、「臣が(このかみ)()(うかし)(さかしまなるわざ)を爲す(かたち)は、天孫(あめみま)到らんとするを聞きて、即ち(いくさ)を起こして襲はんとす。皇師(みいくさ)(いきおひ)を望み見るに、敢へて(あた)るまじきを()ぢて、乃ち(ひそか)に其の兵を伏せて、(かり)新宮(にひみや)を作りて、殿の内に(おし)()きて、(みあえ)を請ふに因りて作難(まちと)らんとす。願はくは、此の(いつはり)を知りて、善く(そな)へ爲したまえ」。

*3

:日本書紀は、「菟田下縣(しもつこほり)」の「」をなぜか「こほり」と読ませているが、「あがた」と読み直した。
 菟田があるという事は、菟田もあったハズであるが、日本書紀には出てこない。

*4

:ここでは、神武の事を「天孫(あめみま)」と呼んでいる。神武は、瓊瓊杵(ににぎの)(みこと)の子孫と書かれている。

 

菟田下縣(菟田穿邑)
地図「天降神社(菟田下縣)」

菟田穿邑

 神武天皇軍は、彦山から西に尾根伝いに木城村へ。そこから中元寺川沿いに北上し、菟田穿邑(天降神社)へ。

*5

:田川郡川崎町の天降神社のある土地が、菟田下縣であり菟田穿邑である。

*6

:今となっては、地名が失われているので判らないが、菟田下縣の北の位置に菟田上縣があったのかも知れない。

 

川崎町史より「天降神社周辺の地図」
第二次東征
菟田穿邑(天降神社)
村名小字調書(川崎町・木城村)
 彦山から八咫烏一族の道案内によって、尾根伝いに菟田穿邑(川崎町)に入る。
 旧木城村に「大王」の字名が遺る。

旧木城村

彦山から

*7

:神武天皇は、彦山から北の方向の添田町へ下って行ったのではなく、彦山の尾根伝いに少し西へ行った後に北上し、川崎町の天降神社の土地へ入った。

 

川崎町の神武天皇
天降神社

 

※ 川崎の語源:高曰﨑早曰川
天降神社 祭神・由緒

*8

:天降神社の祭神、第六殿が(きび)(いいの)(みこと)と書かれている。古事記では、稻氷命。日本書紀では、稻飯命とあり、「」では、無く「」である。

 

第二次東征
菟田縣の血戦
 天皇(すめらみこと)、即ち道臣命(みちのおみのみこと)を遣し、其の(さかしまごと)(かたち)()さしめき。
 時に、道臣命(みちのおみのみこと)(つまびらか)(あた)の害する心有るを知りて、大きに怒り(たけ)(ころ)ひて曰く、「(やっこ)(おれ)が造れる屋に(おれ)自ら(いりゐ)よ」。
 因りて、案劒(つるぎのたかみとりしば)り、彎弓(ゆみひきまかな)ひて、()()ひ入れしむ。()(うかし)、罪を天に()たれば、(こと)(まう)す所無し。乃ち自ら(おし)を蹈みて(おそ)はれ死にき。
 時に其の(かばね)(ひきいだし)て之を斬る。流るる血、(つぶなぎ)を没す。故に其の地を(なづ)けて、菟田(うだの)血原(ちはら)と曰ふ。
 (すで)にして弟猾(おとうかし)、大きに牛酒(しし)(まう)けて、以ちて皇師(みいくさ)(ねぎら)(みあえ)す。
 天皇(すめらみこと)、其の酒宍(しし)を以ちて、軍卒に(あか)ち賜ふ。乃ち御謠(みうたよみ)爲して曰く、

 

第二次東征
菟田の血原(田原遺跡)
Ⓒ川崎町教育委員会
田原遺跡

*9

:天降神社の北の位置に弥生時代の田原遺跡がある。そこが、菟田の血原と思われる。

 

田川(鷹羽)・京築の遺跡
 添田町中元寺の瀬成神社の伝承に、「金の
原(錦原)に、日本で農耕の神と称えられる
、伊勢神宮外宮の保食神(豊宇気姫神)を先
づ祀り、次に災難や穢れを祓う瀬織津姫の神
と、水門を司り、水を支配する速秋津姫神を
祀って、治水を果した
ということで、中元寺
の郷の、地形と、農耕文化発祥の過程が物語
られているように思われます。」とある。
 金の原の東の庄原遺跡からは、金属溶解炉
やりがんな鋳型が出土している。
 弥生時代の田川には農耕文化が発祥してい
て、豊宇気姫神が祭られていたことは間違い
なかろう。
Ⓒ添田町教育委員会
写真「庄原遺跡のやりがんな鋳型」
庄原遺跡から出土した金属溶解炉跡

 

下稗田遺跡の硯と鉄器
 この10月9日に古代のすずりについての専門家、國學
院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国から国内最
古級のすずりを再発見された。
 下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調査、そ
の中から3点のすずりを確認された。
 これまでは、主に筑前方面でのすずりの再確認が行われ
ていたが、ついに豊国から最古級のすずりが確認されたの
である。
 他方、飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土してい
る。刀子は小刀のことであるが、高島忠平さんによれば、
木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための
道具ということだ。
 同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、遠賀川流
から京築方面にわたって、確実に「紀元前から墨で漢字
を書く文化
」があったことになろう。

上:すずり

下:鋳造鉄斧

下稗田遺跡から出土した「すずり」
下稗田遺跡から出土した「鋳造鉄斧」

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

八 道臣命 大久米命 詔を奉じて兄猾を誅す

八 道臣命 大久米命 詔を奉じて兄猾を誅す

 

第二次東征
菟田縣の血戦
 菟田の 高城(たかき)に 鴫罠(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は(さや)らず いすくはし 鯨障り 前妻(こなみ)が ()乞はさば 立稜麦(たちそば)の 実の無けくを 幾多聶(こきしひ)ゑね 後妻(うはなり)が 肴乞はさば 斎賢木(いちさかき) 実の多けくを 幾多聶(こきだひ)ゑね
 添菟田の高城に鴫を捕る罠を張って、俺が待っていると、鴫は懸からず、イスクハシ鯨が懸かった。
 古女房が 獲物を呉れと言ったら、痩せたソバの実のような、脂身の無い所を、うんと削ってやれ、コキシヒエネ。
 可愛い若女房が獲物を呉れと言ったら、榊の果実のような、脂身の多い所を、うんと削ってやれ、コキダヒエネ。
 (これ)來目歌(くめうた)と謂ふ。
 今、樂府(おほうたどころ)の此の歌を奏するには、(なほ)手量(たばかり)の大き小さき、及び音聲(うたごゑ)(ふと)き細き有り。
 此は(いにしへ)(のこ)れる(のり)也。