「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
第二次神武東征(菟田川の朝原の顕齋い)
*1
:「菟田の高倉山」は、川崎町の天降神社(菟田穿邑)の近くにある。その山に登れば、八十梟帥のいる國見丘が見えている。また、女坂・男坂・墨坂も田川の何処かである。
さらに高倉山からは、磐余邑にいる兄磯城の軍も見えている。
*2
:日本書紀には、「天香山」と書いて割注に「香山は、介遇夜摩と云う」とあるので「あまのかぐやま」と読んでいる。奈良県の「天香具山」のように「具」の字は付かない。
*3
:前述では、兄磯城がいた所が磐余邑とあった。ここでは、磯城八十梟帥のいる所が、倭國の磯城邑と書かれている。
つまり、菟田の高倉山から見えていた磐余邑と磯城邑は、同じ場所という事になる。
田川(菟田)の穿邑で、兄猾だけを征伐し、次に武器を整え直し(鏃を作ったという福永説)て、國見丘の八十梟帥を征伐した。
そこから今度は、帝王越えと言って嘉麻川水系に出る。そして、いよいよ「倭奴国との最終決戦」へと向かっていく。
いままでは、この段階で神武天皇は、香春岳(天香山)の土地を制圧したとのではないかと思っていたが、今は川崎町と赤村の一部を制圧しただけと考えている。
神武天皇は、この地に守備隊を置いて、嘉麻水系を北上し、香春岳(香山)から福知山山麓にかけてが中洲の皇都を思われる土地に向かって最終決戦に望む。