「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「肆」)

第二次神武東征(菟田川の朝原の顕齋い)

第二次東征
菟田川の朝原の顕齋い
 九月(ながつき)甲子(きのえね)(ついたち)戊辰(つちのえたつ)天皇(すめらみこと)、彼の菟田(うだ)高倉山(いただき)(のぼ)りて、(くに)(うち)膽望(おせ)りたまふ。
 時に國見丘(くにみのおか)の上に則すなはち八十(やそ)(たけ)()有り。又、女坂(めさか)女軍(めのいくさ)を置き、男坂(をさか)男軍(をのいくさ)を置き、墨坂(すみさか)(おこしずみ)を置く。其の女坂(めさか)男坂(おさか)墨坂(すみさか)()(これ)(より)て起こる也。
 (また)兄磯城(えしき)(いくさ)有りて、磐余邑(いわれのむら)()き滿てり。賊虜(あた)()る所は、皆(これ)要害の地なり。故、道路絶え(ふさが)り通るべき處無し。
 天皇(すめらみこと)、之を(にく)みたまふ。
 是の夜、自ら(うけ)ひて(みね)ませり。夢に天神(あまつかみ)有りて(おしへ)て曰く、

*1

:「菟田の高倉山」は、川崎町の天降神社菟田穿邑)の近くにある。その山に登れば、八十梟帥のいる國見丘が見えている。また、女坂・男坂・墨坂も田川の何処かである。
 さらに高倉山からは、磐余邑にいる兄磯城の軍も見えている。

 

菟田の高倉山(金国山(かなくにやま)
Googleマップ「金国山」

岩石山

香春岳

立岩丘陵

●天降神社

 岩石山(八十梟帥のいる國見丘)、立岩丘陵(兄磯城のいる磐余邑)が金国山菟田の高倉山)から見える。
 香春岳(椎根津彦と弟猾が土を取りに行く天香山)は、天降神社(菟田穿邑)から北に位置する。

<村名小字調書>

村名小字調書(田川市)「高倉」

 金国山が、飯塚市の高倉という
土地と「村名小字調書」に残され
ている田川市の高倉という字の土
地に挟まれている山である。
 だから、この山が菟田の高倉山と思われる。山の東側の麓に天降神社があり、その土地が菟田穿邑である。

 

第二次東征
菟田川の朝原の顕齋い
「宜しく(あまの)香山(かぐやま)(やしろ)の中の(はに)を取りて、 香山(これ)介遇夜摩(かぐやま)と云ふ  以ちて(あまの)(ひら)()八十枚(やそち)を造り、(あは)せて嚴瓮(いつへ)を造りて天神地祇を(うやま)ひ祭り、(また)(いつの)呪詛(かしり)を爲すべし。如此(かく)(すなは)(あた)(おの)づと(たひら)(したが)はむ。」
 天皇(すめらみこと)(つつし)みて夢の(おしへ)(うけたまは)り、依りて將に行なはんとす。
 時に弟猾(おとうかし)、又、(まう)して曰さく、「(やまとの)(くに)()(きの)(むら)()(きの)八十(やそ)梟帥(たける)有り。又、高尾(たかお)張邑(はりのむら)赤銅(あかがねの)八十(やそ)梟帥(たける)有り。(これ)(ともがら)は皆天皇(すめらみこと)(ふせ)ぎ戰はんと欲す。臣、(ひそか)天皇(すめらみこと)が爲に之を(うれ)ふる。(よろし)く今(まさ)(あまの)香山(かぐやま)(はに)を取り、以ちて(あまの)平瓮(ひらか)を造りて天社(あまつやしろ)國社(くにつやしろ)の神を祭り、然る後に(あた)を撃たば(すなは)(はら)(やす)かるべし」とまうす。

*2

:日本書紀には、「天香山」と書いて割注に「香山は、介遇夜摩(かぐやま)と云う」とあるので「あまのかぐやま」と読んでいる。奈良県の「天香山」のように「」の字は付かない。

*3

:前述では、兄磯城がいた所が磐余邑(いわれのむら)とあった。ここでは、磯城八十梟帥(しきのやそたける)のいる所が、倭國(やまとのくに)磯城邑(しきのむら)と書かれている。
 つまり、菟田の高倉山から見えていた磐余邑と磯城邑は、同じ場所という事になる。

 

五七年の倭奴国
饒速日命天香語山命

天香山

耳成山

畝尾山

 

第二次東征
菟田川の朝原の顕齋い
 天皇(すめらみこと)既に夢の(ことば)を以ちて吉兆と爲す。(おと)(うかし)の言を聞くに及びて、(ますます)(こころ)に喜ぶ。
 (すなは)(しひ)根津(ねつ)(ひこ)をして(いや)しき衣服(ころも)及び蓑笠を著け、老父(おきな)(かたち)と爲さしむ。又、(おと)(うかし)をして箕を()せ、老嫗(おうな)(かたち)と爲さしめて(みことのり)して曰く、「(よろ)しく汝二人、(あまの)香山(かぐやま)に到り、(ひそか)に其の(みね)の土を取りて來旋(かへ)るべし。基業(あまつひつぎ)の成否、(まさ)に汝を以ちて(うらな)はん。努力(ゆめ)愼歟(ゆめ)」。
 ()の時に(あた)(つはもの)路に滿ちて以ちて往還(かよ)ふこと難し。時に(しひ)根津(ねつ)(ひこ)(すなは)(うけ)ひて曰く、「我が(おほきみ)能く此の國を定むべきならば、行く路自づから通れ。如もし能はずとならば、(あた)必ず防禦(ふさ)がむ」。

 

第二次東征
菟田川の朝原の顕齋い
 言い(をは)りて(ただ)()ぬ。時に群れたる(あた)、二人を見て大きに(わら)ひて曰く、「大醜乎(あなみにく)老父(おきな)老嫗(おうな)なる」といひて、(すなは)ち相ひ(とも)に道を()りて行かしむ。
 二人、其の山に至るを得て、(はに)を取りて歸り來る。(ここ)に、天皇(すめらみこと)(はなは)だ悦びたまひて、(すなは)()(はに)を以ちて八十(やそ)平瓮(ひらか)(あまの)手抉(たくじり)八十枚(やそち)(いつ)()造作(つく)りて、丹生(にふ)の川上に(のぼ)りて、()て天神地祇を祭り、(すなは)ち彼の菟田(うだの)(かは)の朝原に、(たと)へば水の(あは)の如くして、(かし)り著くる所有る也。
 天皇(すめらみこと)、又、因りて(うけ)ひて曰く、「(あれ)(まさ)に八十平瓮を以ちて水無しに(たがね)を造らむ。

 

第二次東征
菟田川の朝原の顕齋い
 飴成らば、(すなはち)(あれ)必ず鋒刃(つはもの)の威を()らず、()ながら天下(あめのした)を平らげむ」。(すなは)ち飴を造る。飴、(すなは)ち自づと成る。
 又、(うけ)ひて曰く、「(あれ)(まさ)(いつ)()を以ちて、丹生之(にふの)(かは)に沈めむ。()し魚の大き小さき無く、悉く醉ひて流れむこと、(たと)へば(まき)の葉の浮き流れるが(ごと)くならば、(あれ)必ず()く此の國を定めむ。()し其それ(しか)らずは、(つひ)に成る所無けむ」とのたまひて、(すなは)ち瓮を川に沈む。其の口下に向き、(しばらく)ありて魚皆浮き出で、水の(まにま)噞喁(あぎと)ふ。時に(しひ)根津(ねつ)(ひこ)、見て之を(まう)す。
(タガネ) = 固めたものの意。束煉(たがねねり)
  (タガネ)(タガネ) = ③やじり。叩鉄(たたきがね)か 

 

第二次東征
菟田川の朝原の顕齋い
 天皇(すめらみこと)大きに喜び、(すなは)丹生(にふ)の川上の五百箇(いほつ)眞坂樹(まさかき)を拔き取り、以ちて(もろもろ)の神を祭りたまふ。
 (これ)より始めて(いつ)()の置きもの有る也。
 時に道臣命(みちのおみのみこと)(みことのり)すらく、「今、(たか)()(むす)(ひの)(みこと)を以ちて、(われ)(みづか)顯齋(うつしいはひ)()さむ。汝を()齋主(いわひのうし)と爲し、(さづ)くるに嚴媛(いつひめ)()を以ちてせむ。
 其の置ける埴瓮(はにへ)(なづ)けて(いつ)()と爲さむ。又火の名を(いつの)香來(かぐ)(つち)と爲さむ。水の名を(いつの)罔象(みつはの)()と爲さむ。粮かての名を(いつの)稻魂(うかの)()と爲さむ。薪の名を(いつの)山雷(やまつち)と爲さむ。草の名を(いつの)()(づち)と爲さむ」とのたまふ。

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十 丹生の川上朝原の祭

十 丹生の川上菟田川の朝原の祭

 

第二次東征
八十梟帥を國見丘に擊つ
 冬十月の癸巳(みづのとのみ)(ついたちのひ)に、天皇、其の(いつ)()(おもの)(たてまつ)りたまひ、(いくさ)(ととの)へて出でたまふ。
 先づ八十梟帥を國見丘に擊ちて、破り斬りつ。

國見丘:福永説は岩石山
下図の八畳岩の近くに「国見岩」がある

岩石山案内図

 

国見岩Ⓒシニアを生きる
国見岩

 

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

十一 國見丘の戦い

十一 國見丘の戦い

 

 田川(菟田)の穿邑で、兄猾(えうかし)だけを征伐し、次に武器を整え直し(鏃を作ったという福永説)て、國見丘の八十梟帥を征伐した。
 そこから今度は、帝王越えと言って嘉麻川水系に出る。そして、いよいよ「倭奴国との最終決戦」へと向かっていく。
 いままでは、この段階で神武天皇は、香春岳(天香山)の土地を制圧したとのではないかと思っていたが、今は川崎町と赤村の一部を制圧しただけと考えている。
 神武天皇は、この地に守備隊を置いて、嘉麻水系を北上し、香春岳(香山)から福知山山麓にかけてが中洲の皇都を思われる土地に向かって最終決戦に望む。

二〇二〇年度版 神武東征「伍」
「倭奴国との最終決戦」につづく
八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)