「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「陸」)

第二次神武東征
(東征が成就し、倭奴国内の掃討戦を行う)

 

*.倭奴国の残党がいた場所

第二次神武東征 
倭奴国掃討戦と新都建設
 己未(つちのとひつじ)年(一一九)の春二月の(みずのえ)(たつ)(ついたち)辛亥(かのとい)に、諸將に命じて士卒を(えら)ぶ。是の時に、層富(そほの)(あがた)波哆(はたの)丘岬(をかさき)に、新城(にひき)戸畔(とべ)といふ者有り。又、和珥(わに)の坂下に、居勢(こせの)(はふり)といふ者有り。臍見(ほそみ)(なが)柄丘岬(らのをかさき)に、猪祝(ゐのはふり)といふ者有り。此の三處の土蜘蛛、並びに其の勇力(たけきこと)(たの)みて、來庭(まつろ)ふことを(がへん)ぜず。天皇乃ち(かた)(いくさ)を分け遣はして、皆之を誅さしむ。又高尾張邑に土蜘蛛有り。其の爲人(ひととなり)や、身短くして手足長し。侏儒(ひきひと)と相()たり。皇軍、葛の網を()きて掩襲(おそ)ひ之を殺す。因りて改めて其の邑を號けて葛城(かつらぎ)と曰ふ。夫れ磐余(いはれ)の地の(もと)の名は片居(かたゐ)。亦は片立(かたたち)と曰ふ。我が皇師の(あた)を破るに(いた)りてや、大軍集ひて其の地に滿(いは)めり。因りて改めて號けて磐余()ふ。

 

*.添田町の「金の原遺跡」の隣の「庄原遺跡」から「やりがんな鋳型」が出土

層富(そほの)(あがた)(添田町)波哆(はたの)丘岬(をかさき)(畑):新城(にひき)
「地図(田川地方における地域集団化と青銅器の分布)」

Ⓒ添田町史

 「庄原遺跡」の「やりがんな鋳型」の説明は、中元寺の瀬成神社のページをご覧下さい。

 

*.日本書紀にある地名が、添田町に揃っている

層富(そほの)(あがた)(添田町)波哆(はたの)丘岬(をかさき)(畑):新城(にひき)
「地図(添田町)」

①:新城、②:畑川、③:下の畑、④:畑

 

*.中洲(なかつくに)(立岩丘陵)も磐余(いはれ)邑のひとつ

中洲(なかつくに) ⇒ 磐余(いはれ)
熊野神邑(みわのむら)に於ける神武東征最大の激戦地
地図:立岩丘陵

 +13m 

ⒸFlood Maps

 

鯰田(熊野)の海戦
地図:鯰田(熊野)の海戦

Ⓒ平凡社

       
田んぼマークの所は、海だった

  立岩丘陵 
(熊野神邑)

 ①片島、②浦田、③立岩、④鯰田、⑤熊野神社

 

*.神武東征のハズが、何故「出西征」の文句があるのか?

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 (あるひと)の曰く、「天皇(むかし) 嚴瓮(いつへ)(おもの)(たてまつ)りたまひて、軍を出だして西征したまふ。是の時に、磯城(しき)の八十梟帥彼處(そこ)屯聚(いは)み居たり。果して天皇と大きに戰ふ。遂に皇師(ため)に滅さる。故、名づけて磐余(いはれ)と曰ふ。又皇師の立ち(たけ)びし處、是を猛田(たけだ)と謂ふ。()を作りし處を、號けて城田(きた)と曰ふ。又、賊衆(あたども)戰死して()せる(かばね)(ただむき)()きし處を呼びて頬枕田(つらまきだ)と爲ふ。天皇、前の年の秋九月を以て、(ひそか)天香山埴土(はにつち)を取り、以て八十平瓮(やそひらか )を造りて、躬自(みづか)齋戒(ものいみ)して諸神を祭りたまふ。遂に區宇(あめのした)を安定するを得たまふ。故、土を取りし處を號けて、埴安(はにやす)と曰ふ。 

 

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 (あるひと)の曰く、「天皇(むかし) 嚴瓮(いつへ)(おもの)(たてまつ)りたまひて、軍を出だして西征したまふ。
天皇曰く)我ちしより、茲に六年になりにたり。
 神武紀に現れる「西征」については、未だ(かつ)て誰一人註をつけた者はいなかったようだ。神武の第二次東征は宇佐へ大迂回をし、中洲の皇都を西に向って討つ「神策」であった。この段落に於ける、一見すると「神武東征」の主題と矛盾する「西征」の表現にこそ、神武東征の史実が示されていた。
 通説の近畿大和への東征では、熊野新宮市)再上陸から大和への行程はむしろ「北征」と呼ぶべきで、筑豊コースと比較すると、「日を背にした」具体的な戦い及び進軍の経由地はおよそ比定しようがないほど伝承に乏しいし、もともと日本書紀の記述に合わないのである。

 

征西も中洲もない東征
「地図(通説の神武東征:征西も中洲もない)」

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 熊野再上陸から宇陀へ 
 向かって北伐 

Ⓒ山梨 歴史文学館

 

*.倭奴国の残党がいた場所(その2)

「地図(福智町金田⇒城田郷)」

『倭名類聚抄』田川郡(4つの郷):河原郷、雉怡郷、位登郷、城田(きた)

『田川郡誌』宮床村、糸田、大熊、南木、神崎、金田、伊方、弁城、上野、赤池       市津、椎木田、草場の十三ケ村

 日本書紀に書かれている「城田(きた)」の地名と同じ地名が、平安時代中期に源順が編纂した辞書である『和名類聚抄』の中に田川郡があり、そこの一つに城田郷がある。
 その場所は何処か? googleマップで示す通り福智町の金田周辺である。ここは、『田川郡誌』に書かれた13ヶ村のひとつ金田村である。

 

「地図(福智町金田⇒城田郷)」

城田(きた)(平安時代)→ 金田荘(鎌倉時代)

 平安時代の『和名類聚抄』には、城田であった土地が、鎌倉時代には金田に変わったという仮説である。
 この「金田荘」の読みは、「田(た)」である。というのは、香春町を流れている金辺川は、「きべ川」という。だから、「金田荘」は、本来「きた荘」であろう。
 福智町金田(かなだ)が、神武紀にある「城田(きた)」であると気が付いた。

 

天香山の埴土
香春岳(倭三山)

天香山

耳成山

畝尾山

 天香山は、香春岳三ノ岳である。そこの埴土を取った。

 

「地図(川崎町:猛田 埴安⇒位登郷)」

日本書紀の猛田(たけだ)埴安(はにやす)は、『倭名類聚抄』にある位登(いとう)

位登

田原遺跡 ●

 

*.倭奴国掃討戦(京築方面)

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 京築方面の神武東征(風土記逸文)
 伊勢の國の風土記に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊の十二世の孫、天日別命(あめのひわけのみこと)(こと)()けし所なり。天日別命神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇(したが)ひて紀伊の國熊野村に到りき。時に、金の烏の導きの(まま)中州に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇大部(おほとも)日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる(ともがら)膽駒(いこま)長髓を早く征罰せよ」とのりたまひ、(また)天日別命に勅りたまひしく、「國、天津の方に有り。其の國を平けよ」とのりたまひて、即ち(しるし)の劒を賜ひき。天日別命、勅を奉じてに入ること數百里。其の邑に神有り、名を伊勢津彦と曰へり。天日別命、問ひけらく、「汝の國を天孫(たてまつ)らむや」といへば、答へけらく、「吾此の國を()ぎて居住むこと日久し。命を聞き敢へじ」とまをしき。天日別命、兵を發して其の神を(りく)さむとしき。時に、(かしこ)み伏して(まを)しけらく、「吾が國は(ふくつ)天孫(たてまつ)らむ。吾は敢へて居らじ」とまをしき。天日別命、問ひけらく、「汝の

 

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 (風土記逸文)(つづき)
去らむ時は、何を以ちてか(しるし)()さむ」といへば、(まを)しけらく、「吾は今夜を以ちて、八風を起こし海水(うしほ)を吹き、波浪に乘りて東に入らむ。此は則ち吾が()る由なり」とまをしき。天日別命整へて窺ふに、中夜(よなか)(いた)(ころ)、大風四もに起りて波瀾を扇擧(うちあ)げ、光耀(てりかがや)きて(ひる)の如く、陸も海も共に(あきら)かに、遂に波に乘りて東にゆきき。古語(ふること)に、神風の伊勢國、常世の浪寄する國と云へるは、(けだ)しくは此れ、之れを謂ふなり。伊勢津彦の神は近く信濃の國に住ましむ。)天日別命、此の國を懷け柔して、天皇復命(かへりごと)まをしき。天皇大いに歡びて、詔りたまはく、「國は宜しく國神の名を取りて、伊勢と號けよ」とのりたまひて、即ち天日別命封地(よさしどころ)の國と爲し、宅地(いへどころ)大倭耳梨の村に賜ひき。(或本に曰はく、天日別命、詔を奉じて、熊野の村より直に伊勢國に入り、荒ぶる神を殺戮し、(まつろ)はぬものを(きた)し平げて、山川を堺ひ、(くに)邑を定め、然して後、橿原の宮復命(かへりごと)まをしき。)
(萬葉集註釋卷第一)

 「大倭の耳梨の村」は、香春岳二ノ岳の麓辺りか?

 

(あめの)()(わけの)(みこと)(=(あめの)()(わしの)(みこと)
伊勢朝臣、後の渡会氏(わたらいうじ)の祖
春日神社(福岡県田川市)
由緒  
 西海豊前国田川郡弓削田の庄、弓削田春日大明神と称え奉る由緒は姓氏録に弓削(ゆげの)(むらじ)左京(さきょう)(てん)(じん)は祖先高魂(たかみ)産霊(むすびの)(みこと)三世孫、(あめ)()鷲翔矢(わしかけやの)(みこと)の子孫と有る。
 豊櫛(とよくし)弓削(ゆげ)高魂産霊(たかみむすびの)(みこと)則ち高皇産霊命三世孫、天日鷲翔矢命御子(みこ)長白羽命(ながしらはのみこと)と共に(あま)(くだ)り座す。〔古き伝に(あめの)磐樟船(いわくすふね)で神天降りと、御社より申酉方、凡そ数十丁に船尾山有り、是即ち神の乗られし磐樟船山と成る古跡也〕
 光仁天皇宝亀六年〔西暦七七五年〕に天日鷲翔矢命より三十一世孫の弓削連豊麿、豊前守に成るや、神代より深き因縁有ると神官官職数多引連れ奈良都春日大社の御分霊を勧請し弓削太神と合わせ奉る成り。
御祭神  
 武甕槌命 布都主命 豊櫛弓削遠祖高魂産霊命 天津児屋根命 姫大神

 春日神社(田川市宮尾町)から西の方角に船尾山(田川市弓削田)がある。

 

春日神社(田川市宮尾町)
絵図:春日神社(田川市)

 

伊勢国 = 臍見(ほそみ)(なが)柄丘岬(らのをかさき)
蓑島(みのしま)神社(旧京都郡蓑島村字村中)
 社説に曰く、本神社の由緒を按ずるに、其の起源遠く上古神武天皇の御世に在り、天皇筑紫日向國より豊州(みの)(しま)に入り給ふや、是に天照大神(いは)ひ祭りぬ。後嶋民其の行在所に一祠を建て天皇を奉祀せり。(後略)
神武即位前紀戊午年冬十月
 神風の  伊勢の海の 大石に や い這ひ(もとほ)る 細螺(しただみ)の 吾子よ、細螺の 吾子よ。 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ。 撃ちてし止まむ。

臍見の長柄丘岬?

簑島神社 ●

 

下稗田遺跡の石器
地図:下稗田遺跡の石器

 

下稗田遺跡の硯と鉄器
 この10月9日に古代のすずりについての専門家、國學院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国から国内最古級のすずりを再発見された。下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調査、その中から3点のすずりを確認された。これまでは、主に筑前方面でのすずりの再確認が行われていたが、ついに豊国から最古級のすずりが確認されたのである。
 他方、飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土している。刀子は小刀のことであるが、高島忠平さんによれば、木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための道具ということだ。同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、遠賀川流域から京築方面にわたって、確実に「紀元前から墨で漢字を書く文化」があったことになろう。
写真「すずり」

下稗田遺跡のすずり

写真「鋳造鉄斧」

鋳造鉄斧

 

天満倭国 = 倭奴国の成立
前一四 饒速日(天照大神)、
   葦原瑞穗國の笠置山に降臨

立岩式石包丁分布図

地図「立岩式石包丁分布図」

「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図

写真:笠置山

笠置山

写真:天照宮(磯光)

天照宮(磯光)

 

白庭神社(御所山古墳)
鎮座地
 苅田町大字与原字御所山868番地
御祭神:天照國照彦天火明命 櫛玉命 
   饒速日命
 大己貴命 罔象女(みつはのめ)
地図「白庭神社(御所山古墳)」

 天照神社(宮若市磯光)の祭神:天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
 白庭神社(苅田町与原)では、天照國照彦天火明命櫛玉命饒速日命の三柱

白庭神社(御所山古墳)

「白庭神社(御所山古墳)」
「白庭神社(御所山古墳)」

 

「神武天皇東征地図」

元伊勢

伊勢國

天日別命に追われた伊勢津彦の一族は、
京築(元伊勢)⇒ 現在の三重県の伊勢神宮の地へ逃れて
行った。但し、神武天皇は、近畿へ東征していない。