「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『日本書紀』の箸墓 ~ 卑弥呼の墓赤村説 ~

※ 『日本書紀』の箸墓 ~卑弥呼の墓赤村説~
 (令和3年3月14日、邪馬台国講演会 邪馬台国は北部九州にあった、ビーポート甘木中ホール)より

 伊弉諾尊、天満倭国=倭奴國、神武第一次東征

<『日本書紀』の箸墓 ~卑弥呼の墓赤村説~(その4)「伊弉諾尊~倭国大乱」>

最初の王朝交替
  おのころ島の発見
 是に天つ神、諸の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那
美命、二柱の神に、「この多陀用弊流国を修理め固
め成せ。」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さし
賜ひき。
 故、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を
指し下ろして画き
たまへば、々袁々に画き
鳴して引き上げたまふ時、その矛のより垂り落つ
る塩、累なり積もりて島と成りき。これ於能碁呂島
なり。
(許呂末
頃末
 その島
に天降り
まして、
天の御柱
を見立て、
八尋殿
見立てた
まひき。
多賀山(水巻町)

於能碁呂島

多賀山

豊前坊山

「立屋敷遺跡」

立屋敷遺跡 柱痕跡
掘立柱による高床式建物
推定:伊邪那岐命の八尋殿

「遠賀川式土器」

遠賀川式土器

弥生中期 銅剣の時代
 伊弉諾尊
日本(やまと)は浦安の国細戈(くわしほこ)千足(ちだ)る国
 磯輪上(しわかみ)秀真国(ほつまくに)

 と名付けたとある。
「銅戈・銅剣」

遠賀町
公式ホームページ

「マッコウクジラの歯の装飾品」

直方市天神橋貝塚
マッコウクジラの
歯の装飾品

「古遠賀湾図」

古遠賀湾沿岸の最古の稲作

「遠賀川式土器の伝播地図」
「遠賀川式土器・遠賀川系土器」
下稗田遺跡の硯と鉄器
 この10月9日に古代のすずりについての専門家、國學
院大學客員教授の栁田康雄さんがとうとう豊国から国内最
古級のすずりを再発見された。
 下稗田遺跡から出土していた約50点の砥石を調査、そ
の中から3点のすずりを確認された。
 これまでは、主に筑前方面でのすずりの再確認が行われ
ていたが、ついに豊国から最古級のすずりが確認されたの
である。
 他方、飯塚市の立岩遺跡から、数点の刀子が出土してい
る。刀子は小刀のことであるが、高島忠平さんによれば、
木簡などに墨で字を書き、誤ったらその個所を削るための
道具ということだ。
 同遺跡からは、「前漢式鏡」も出土しており、遠賀川流
から京築方面にわたって、確実に「紀元前から墨で漢字
を書く文化
」があったことになろう。

上:すずり
下:鋳造鉄斧

「下稗田遺跡の硯」
「下稗田遺跡の鋳造鉄斧」
下稗田遺跡の石器
「今山の石斧と立岩の石包丁および北九州市域石器の分布」
天満倭国=倭奴國の成立
 前一四 饒速日(天照大神)、
   葦原瑞穗國の笠置山に降臨
「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図
「今山の石斧と立岩の石包丁の分布地図」
「笠置山」
「天照宮(宮若市磯光)」
天満倭国=倭奴國の成立
 ① 鉄製品を造った国家
 素戔嗚尊を倒したのが天照大神こと饒速日尊
あろう。宮若市宮田町磯光の天照宮に祭られる男
神である。
 『古事記』天の岩屋戸伝承にこうある。
 かれここに天照大御神見畏こみて、天の
石屋戸
を開きてさし隠りましき。ここに
天原
皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し。これ
に因りて、常夜往く。ここに万の神の声は
、さ蝿なす満ち、万の妖悉に発りき。…
の金山の鐵を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎ
て、伊斯許理度売の命に科せて、鏡を作ら
しめ
、…天の香山の真男鹿の肩を…(手力
男の神)、速須佐の男の命に千座の置戸
負せ、また鬚と手足の爪とを切り、祓へし
めて、神逐ひ逐ひき。
 「千座の置戸」とは何枚もの板状の石のことで
あり、素戔嗚尊は重い石を身体の上に置かれて圧
殺されている。
 彼の一族は再び現在の出雲に流されたようだ。
倭奴国と楽浪郡の里程
倭國
憑山負海鎭馬臺以建都
 後漢書曰、朝(鮮)東南大海中、
依山島居、凡百餘國。自武帝滅 朝鮮、
使譯通漢於者州餘國、稱王、 大倭王
邦臺

 樂浪郡儌其國万二千里。甚地大
較在會稽東。与朱雀・儋耳相近。
(謝承後漢書)
樂浪郡 → 樂浪郡
(隋書俀國傳)
(さかい、とりで
「范曄後漢書」
※ 樂浪郡徼は、樂浪郡治の謂いか
伊都能知和岐知和岐弖
イツのちわきちわきて
(古事記上巻 忍穂耳命邇々芸命 天孫降臨
『翰苑』倭国条の第一句「憑山負海鎭馬臺以建都」
万葉仮名「(日本国語大辞典)
万葉仮名「都」(日本国語大辞典)
万葉仮名「都」(日本国語大辞典)
伊都能知和岐知和岐弖
イツのちわきちわきて
(古事記上巻 忍穂耳命邇々芸命 天孫降臨
地図「原の辻貿易」(弥生中期後半の交易活動)

楽浪式土器伝播図(倭国)

倭人周里を用いた
歩と里の概念
孝徳紀
 「五十戸とす」
  歩 (ふたあし)
   (五〇歩
  尺 (新字源)
= 一・三五㍍
= 六七・五㍍
= 二二・五cm
『史記』 管晏列伝 司馬遷
晏子 「六尺に満たず」
御者 「八尺の大男」
一・三五m
一・八m
秦  歩 (ふたあし)
  里 (三〇〇歩)
= 一・三五㍍
= 四〇五㍍
  歩 (ひとあし)
   (三〇〇歩
= 〇・二四㍍
= 七二㍍
絵「1歩=2跬(跬:半歩、一足)」
天満倭国=倭奴國の成立
 ② 墨で漢字を書く国家
 これらに関連するのが『後漢
書』倭国伝の次の一節である。
 建武中元二(五七)年、
倭奴国奉貢朝賀す。使人自
大夫と称す。
 倭国の極南界を極むるや
、光武賜うに
印綬を以てす。

 安帝の永初
元(一〇七)
年、倭国王帥
升等、生口百
六十人を献じ
請見を願う。
「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」
金印「漢委奴国王」
封泥「漢委奴国王」
五七年の倭奴国
饒速日命天香語山命
「香春岳」

天香山

耳成山

畝尾山

弥生時代の倭国=豊国の歴史



 

 

 

 



 

 

 

 


660


300


 


 


100


 


14


57

 
 

大物主 八千矛の時代

 
 

火カグツチ(火男)
八俣の大蛇(八幡神)「天叢雲剣」

 
 

伊弉諾尊 細型銅剣の時代

 
 

遠賀川式土器 立屋敷遺跡

 
 

すずり、鋳造鉄斧 下稗田遺跡
前漢式鏡、刀子、絹 立岩遺跡

 
 

素戔嗚尊出雲王朝を創建

 
 

天照大神笠置山に降臨、倭奴国
天の金山の鐵から鏡製作

 
 

ウマシマデの東遷
後漢の光武帝金印を下賜



 

 

 

 







1C
 

107
 

121
 

146
189

200
 

239
 

260
 

320
  

 
 

(漢)委奴国栄える

 
 

倭面上国王帥升生口献上
金銀錯嵌朱竜紋鉄鏡下賜か

 
 

神武天皇即位邪馬台国創始

 
 

倭国大乱

 
 

卑弥呼共立

 
 

帯方郡(魏)に遣使
遠賀川流域に後漢式鏡

 
 

日本武尊「草薙剣

 
  

神功皇后征西

邪馬臺国の成立
 東征前史 彦瀲尊まで
前四七三 越王勾践、呉王夫差を討つ

 七城地域の「弥生水田」((うてな)台地の城ノ上遺跡)から籾痕(ジャポニカ種)のついた弥生土器が出土している。(七城町史)
 この弥生前期に水田稲作の技術とともに日本に伝播した籾は、揚子江下流域を原産地とするジャポニカ種だとされている。

「松野連(倭王)系図」
「神来(おとど)地区の字図」
『魏略』中の火国の記録
文身點面猶稱太伯之苗
 魏 略 曰 , 女 王 之 南 , 又 有 狗 奴
,(女) 男 子 為 王 , 其 官 曰 拘 右
智 卑 狗
, 不 屬 女 王 也 . 自 帶 方 至
女 國 万 二 千 餘 里其 俗 男 子 皆 點
而 面 文
. 聞 其 舊 語 ,①自 謂 太 伯 之
②昔 夏 后 少 康 之 子 封 於 會 稽 ,
斷 髮 文 身 以 避 蛟 龍 之 吾 . 今 倭 人
亦 文 身 以 厭 水 害.
① 呉の太伯は「姫
 氏」夫差の祖
  狗奴国は菊池
 川流域菊鹿盆地
② 夏后少康之子は
 越王勾践の祖
  倭人(倭国)は
 遠賀川流域
菊池盆地を望む
東征前史 彦瀲尊まで
図―⑤縄文湖の水が引いた後の弥生遺跡
縄文湖・弥生湖「茂賀の浦」
東征前史 彦瀲尊まで
「神武天皇の系図」
「吾平山陵」
写真「吾平山」

 吾平山 

「久しくして彦波瀲(ひこなぎさ)(たけ)鸕鷀()草葺不合(がやふきあえず)尊、西洲の宮に崩ず、因りて
 日向の吾平(あひら)の山(ほとり)の陵に(はぶ)りまつる。」(神代紀)

第一次東征 鉄を求めて
 日向筑紫豊国
 竈山の高千穂の宮において、三年間再軍備。
一一五年 春三月 遠賀湾を遡り、夏四月、長髄彦軍
 と交戦、五瀬命負傷し、敗戦。博多湾住吉神社近く
 の草香津(大濠公園)に帰還。
  五月 五瀬命死去、竈山(大宰府宝満山)に葬る。
一一四年 磐余、冬十月 諸兄・諸皇子らと第一次
 東征を開始。
  十一月 岡水門に至り、軍備を整える。
 この頃から韓半島・倭奴国乱れ、以後、漢への遣使
 が途絶する。
一〇七年 倭国王帥升、
 後漢の安帝に生口

 食肉用奴隷)一六〇
 人を献ず。
  この倭国王は天孫
 本紀に云う天忍人命か。
後八三年 お佐賀の大
 室屋(吉野ヶ里遺跡)
 陥落
鸕鷀草葺不合
 尊
磐余の佐賀平
 野攻略戦。
「吉野ヶ里遺跡」
免田式土器の分布
「免田式土器」

ジョッキ形土器

「免田式土器の分布図」

 神武第二次東征~倭国大乱  に続く ・・・ 倭奴(いぬ)国が滅亡し、邪馬臺(やまと)国成立