「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 『日本書紀』の箸墓 ~卑弥呼の墓赤村説~
(令和3年3月14日、邪馬台国講演会 邪馬台国は北部九州にあった、ビーポート甘木中ホール)より
白村江戦戦後処理~壬申の乱、日本書紀の成立
※ <『日本書紀』の箸墓 ~卑弥呼の墓赤村説~(その3)「白村江戦後~壬申の乱、鷹羽の神々」>
白村江戦戦後処理
⑥ 天智四年(665 → 664)
秋九月庚午朔壬辰、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。
七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
海外国記曰、天智天皇三年四月、大唐客来朝。
大使朝散大夫上柱国郭務悰等卅人・百済佐平禰軍等百余人、到二対馬島一。
※ 唐の羈縻政策①
筑紫都督府を置く。大宰府占領さる。
⑦ 天智四年(665 → 664)
等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。
七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。
※ 『大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘』( 禰軍 六七八年没)
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(前略)去る顯慶五年(六六〇)、官軍の本藩を平らぐる日、機を見て變を識り、劔を杖つき歸を知るは、由余の戎を出づるがごとく、 金磾の漢に入るがごとし。
聖上嘉歎し、擢んづるに榮班を以てし、右武衛滻川府析衝都尉を授く。
時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋れ、風谷の遺甿、盤桃を負ひて阻め固む。(後略)
白村江戦戦後処理
⑨(天智)三年(664 → 665)
春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟(大海人皇子=筑紫君薩野馬)、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。
(天智)十年
春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。
癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子拜太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣紀大人臣爲御史大夫。御史蓋今之大納言乎。
甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載於新律令也。
(天智)※四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。(天武紀上)
※ 天智十年(天智紀)
日本国の建国 → 壬申の大乱
⑩ 天智天皇九年(670)春二月に、戸籍を造る。
※ 庚午年籍。唐の冊封下に入る。
倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。
(三国史記 新羅本紀文武王十年十二月)
⑪ 天智天皇十年(671)九月に、天皇寝疾不予したまふ。
冬十月の甲子の朔壬午(十九日)に、東宮、天皇に見えて、吉野(山国町若宮八幡)に之りて、脩行仏道せむと請したまふ。天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ。大臣等侍へ送る。菟道(香春町阿曽隈社)に至りて還る。
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