「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 『日本書紀』の箸墓 ~ 卑弥呼の墓赤村説 ~

※ 『日本書紀』の箸墓 ~卑弥呼の墓赤村説~
 (令和3年3月14日、邪馬台国講演会 邪馬台国は北部九州にあった、ビーポート甘木中ホール)より

 隋書俀(倭)国伝(抄録)

隋書俀(倭)国伝(抄録)

上:白村江戦関係図
下:隋書倭国伝の     
  倭国秦王国

*.斉明紀に東朝
  持統紀に本朝

 倭国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
『隋書』俀國(原文の一部)
倭国地図(倭国本朝、倭国東朝)
白村江の戦いの地図

*.東朝(斉明紀)
  七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。(中略) 祈其君糺解於東朝。或本云(後略)

*.本朝(持統紀)
  四年(中略) 冬十月甲辰朔戊申、天皇幸吉野宮。(中略) 博麻謂土師富杼等曰『我欲共汝還向本朝。(後略)

魏志倭人伝は誤字だらけ
邪馬壹國こそなかった
其大倭王居邪馬國.案今名邪摩
音之訛也.
(范曄後漢書李賢注)
ダイ
タイ
ユイ
イチ
イツ

-t

 つまり、唐代には「邪馬國」・「邪
國」があったが、「邪馬國」は未
だ出現していなかった
ノウ
ドウ
ダイ
魏志倭人伝と日本書紀
二四〇 魏使邪馬臺国に至る
  正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉
 詔書印綬
臺・台(万葉仮名)→   ※ 仮借
「魏使のルート(水行十日)」
隋書俀国伝(抄録)
 漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使朝貢謂之倭奴国  桓霊之間其國大亂遞相攻伐歴年無主 有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆 於是國人共立為王 有男弟佐卑彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面 唯有男子二人給王飲食通傳言語 其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 為法甚嚴 自至于齊梁代與中国相通

ⒸNoriko K. Williams

漢委奴國王印
金印「漢委奴国王」
封泥「漢委奴国王」
「岩戸山古墳」

Ⓒ岩戸山古墳

隋書俀国伝(抄録)
 開皇二十年、俀王姓阿毎、字多利思比
孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪
其風俗。使者言俀王以天為兄、以日為弟
天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、
云委我弟。高祖曰、「此太無義理。」於
是訓令改之。
 開皇二十年(六〇〇年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮
に詣でさせる

 上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさ
せた。使者が言うには、倭王は天を以て兄と
なし
日を以て弟となす天が未だ明けない
時、出でて聴政し、結跏(けっか)趺坐(ふざ)(=座禅に於け
る坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停
我が弟に委ねるという
 高祖が曰く「これはとても道理ではない」。
ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
※ 阿輩雞彌=阿毎雞彌=天皇
※ 米 呉 マイ  漢 ベイ
聖徳太子の正体
『宋史』日本國(王年代紀)
 次用明天皇、有 子曰 聖德
太子
 、年三歳、聞 十人語 、
同時解 之、七歳悟 佛法于菩
提寺 、講 聖鬘經 、天雨 曼
陀羅華 。當 此土隋開皇中 、
遣 使泛 海至 中國 、求 法
華經 
。次崇峻天皇。次推古天皇
欽明天皇之女也。次舒明天皇
皇極天皇。次孝德天皇白雉四
年、律師道照求 法至 中國 、
從 三藏僧玄奘 受 經律論 、
當 此土唐永徽四年 也
。次天豊
財重日足姫天皇
令 僧智通等入 
唐求 大乗法相敎 。當 顯慶三
年 
。次天智天皇、次天武天皇
持總天皇

<『日本書紀』の箸墓 ~卑弥呼の墓赤村説~(その2)「隋書俀国伝、白村江戦」>

隋書俀国伝(抄録)
 王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等、一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子をわかんどほりと呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。
※ わかんどおり
 皇室の血統。皇族。わこうどおり。わかみどほりの変化したもの。
(日本国語大辞典)
隋書俀国伝(抄録)
 有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色靑大如雞卵 夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來
 阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。如意宝珠というものがある。その色は青で、大きさは鶏の卵くらい。夜になると光る。魚のひとみだと言っている。
※ 阿蘇山(香春三ノ岳 阿蘇隈社周辺)
 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰、「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰、「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
 大業三年(六〇七年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。その国書に曰く「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
隋書俀国伝(抄録)
 明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
 明くる年(大業四年六〇八)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。
 百済へ渡り、竹島に至る。南に聃羅国を望み、はるかな大海の中にある都斯麻國を経て、また東の一支國へ至る。
 また竹斯國へ至り、また東の秦王国に至る。
 その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。
 また十余国を経て海岸に到達する竹斯國以東はみなに付属している
隋書俀国伝(抄録)
鴻臚館復元図

  鴻臚館復元図
  Ⓒ福岡市博物館

鴻臚館跡48,000㎡

阿恵官衙遺跡
周辺地図
 俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
 倭王は小徳の阿輩臺を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。
 十日後、また大礼の哥多毗を派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。既にこの国の都(長者原駅付近阿恵官衙遺跡か)に到達した。
隋書俀国伝(抄録)
 其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引淸就館
 その王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。「私は海西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。」と。裴世清は答えて言った「(隋の)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。王が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。」と。対面が終わって引き下がり、清は館に入った。
隋書俀国伝(抄録)
 其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶 
 その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。『隋朝から託された命令は既に伝達しました。どうかすぐに(秦王国への)出発の準備をしてください。』と。そこで宴を設けてもてなし、清を行かせた。また使者に命じて清に随伴させ、隋へ来て方物を貢いだ(六〇八年)。このあと遂に交流は絶えてしまった(六一〇年)。
隋の領域図
隋書琉球國伝(抄録)
 大業元年,海師何蠻等,每春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。
 三年,煬帝令羽騎尉硃寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻俱往,因到流求國。言不相通,掠一人而返。明年,帝復令寬慰撫之,流求不從,寬取其布甲而還。時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也。」
 隋の大業元年(六〇五)、船長の何蛮たちが言うには、毎年の春と秋の空が晴れわたり風が穏やかなときに、東の方を望むと、もやのようなものの気配があるらしく見えるが、そこまで幾千里あるものかわからない、ということだった。
 大業三年(六〇七)には、煬帝は羽騎尉の朱寛に、海上に乗り出し、変わった風俗の人々を探し求めるよう命令した。その時何蛮 らの先の言葉があったので、何蛮を案内役に立てて出発した。そして流求国に達したが、言葉が通ぜず、流求人一人をさらって中国へ戻った。
 翌大業四年(六〇八)、煬帝は再び朱寛に命じて、流求国へ派遣し、中国に服従させようとしたが、流求は従わなかった。そこで朱寛は流求の麻の鎧を奪って中国に帰った。ちょうどその時、倭国の使者(小野妹子)が隋の朝廷に来ていて、 この麻の鎧を見ると、「これは夷邪久国(屋久島)の人のものだ。」と言った。

 倭国本朝と倭国東朝  に続く ・・・ 阿毎多利思比孤・推古天皇~白村江の戦い