「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 猿丸大夫は採銅所にいた!
(令和二年霜月七日、香春町郷土史会)より
六国史の一番目の『日本書紀』天武天皇十年の記事に柿本臣猨が出てくる。猿丸太夫の事である。その柿本臣猨が小錦下の位に就いたと書かれている。
『日本書紀』天武天皇十三年の記事には、柿本臣となっているが、天武天皇十年の記事の柿本臣猨であろう。その時に朝臣という姓を賜ったと書かれている。但し、人麻呂ではなく、猨である。
『万葉集』にはよく出てくる柿本人麻呂は、六国史である『日本書紀』にも『続日本紀』にも一度も登場しない。ところが、柿本猨は『万葉集』に出てこない。猿丸太夫が出てこない。
冒頭に説明した『古今和歌集』真名序には、柿本大夫(人麻呂)と猿丸大夫の両方とも出ていた。柿本人麻呂が、六国史に一度も出てこないというのは厳密な事実である、
柿本人麻呂と猿丸太夫(柿本猨)は、同一人物かという事が昔から言われてきていて、そのような事がいっぱい書かれている。
それを立証していく。そして、採銅所の猿丸太夫の墓が何を意味するのかという結論にいく。
六国史の二番目の『続日本紀』元明天皇和銅元年の記事に従四位下の柿本朝臣佐留とある。ここに出てくる柿本朝臣佐留佐留は、勿論、『日本書紀』天武天皇の記事にあった柿本朝臣猨である。
ここでは、柿本朝臣佐留と万葉仮名「さる」と書かれている。その柿本朝臣佐留が卒したとある。その亡くなった時に「卒する(しゅっする)」が使われており、もと四位・五位の人である。
その後、「五月十一日 はじめて和同開珎の銀銭を使用させた。」という記事が重要になってくる。
『続日本紀』の版本によっては、柿下佐留に「柿下(かきのもと)」の字が使われている。香春町には柿下温泉がある。
柿下という地名がある香春町で猿丸太夫の墓を見せられて以来、20数年、柿本猨(佐留)はこの地にいたと思っていた。
『新撰姓氏録』の中に敏達天皇代にの「柿本」の名がおこったと記されたいるので『日本書紀』敏達天皇の記事を示した。
『日本書紀』敏達天皇の記事にある「尼等を海石榴市の駅舎で鞭打った」、その海石榴市の場所は行橋市の「椿市廃寺」の辺りで間違いない。
『新撰姓氏録』に記されている事が史実であれば、敏達天皇の代に柿本家がおこり、柿本家は行橋市の「椿市廃寺」の辺りに居た事になる。
その場所を地図で示す。柿本家が奈良県にあったのではなく、やはり豊前の土地にいた。
椿市廃寺
(四天王寺)
五社八幡
(難波高津宮)
高山
琵琶隈
▶ 万葉集の柿本人麻呂歌 に続く ・・・ 柿本人麻呂が柿本猨と同一人物かを確かめる