倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第一 雑歌 40番〜44番 (倭歌の伊勢の國は、苅田町辺り)
巻第一の40番・41番・42番の三首から入る。
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「やまと」の万葉仮名に「日本」が用いられている。日本という国号が使われるようになったのは、西暦670年(天智天皇九年)に当る年、『三国史記 新羅本紀文武王十年十二月』記事に「倭国更ためて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。 以に名と為すと。」とあるから、44番歌は、明らかに天智天皇の時代以降に詠まれた歌という事が表記の上からもわかる。
左注の内容は、『日本書紀』持統天皇紀にある。この左注にある「右」というのが、40番〜44番までのどの歌を指すのか?
福永説では、44番歌のみが、左注の時代の歌である。「やまと」の表記(万葉仮名)が、「日本」であり、天智天皇の時代以降の歌であるからこの歌は、持統天皇の時代の左注と合っている歌と考えられる。
40番・41番・42番の三首の題詞にある「幸二于伊勢國一時」の天皇が、本当に持統天皇なのか? という疑いを持っている。
通説では、柿本朝臣人麻呂は、天武・持統天皇に仕えた。あるいは、持統・文武天皇に仕えた宮廷歌人とされている。福永説では、柿本朝臣人麻呂は、天智天皇に仕えた宮廷歌人とした。
したがって、この「幸二于伊勢國一時」の主語は、天智天皇である。この伊勢國は、何処か?
通説では、伊勢國はすぐに三重県として、この40番にある「嗚呼見の浦」も三重県鳥羽市小浜の南岸という説がある。この「嗚呼見の浦」も何処だろう?
『伊勢國風土記』逸文が、『萬葉集註釋』(仙覚抄)卷第一の中に残っている。その内容が、下記の通りである。
冒頭に「伊勢の國の風土記に云はく」とあり、三重県の事が書かれていると思われているが、記事に書かれている伊勢の國は、三重県(近畿方面)の土地の事ではなかった。
記事に書かれている土地は、『第二次神武東征』において、下記の通り比定している。
・西の宮:糸島市の高祖神社
・熊野村:飯塚市の立岩丘陵にある熊野神社
・中州:飯塚市の立岩丘陵
・菟田の下縣:田川郡川崎町の天降神社
「東に入ること數百里」とあるのは、田川郡川崎町、あるいは飯塚市の立岩丘陵から東へ數百里の距離だという事である。
福永説では、周里「1里=67.5m」を採っているから、500里〜600里とした場合、33.75km〜40.5kmとなる。飯塚市立岩から苅田町まの距離は、国道201号線経由のルートで37kmである。
東に數百里行った処が、伊勢の國であり、伊勢津彦がいた國である。その國を神武天皇に仕えた天日別命が、攻め立てて降伏させた。これが、「京築方面における神武東征」である。
・耳梨の村:香春二ノ岳(耳成山)の麓の村
・橿原の宮:香春町高野の鶴岡八幡神社
*2
『萬葉集註釈』(萬葉集抄、仙覚抄)は、鎌倉時代初期における天台宗の学問僧 仙覚が、文永6年(1269年)に完成させた。
また、天日別命を祀る神社が田川市に存在する。春日神社である。
伊勢の國(伊勢神宮)に祀られている神は、天照大神である。そうした時に苅田町に白庭神社(御所山古墳)があり、御祭神が天照國照彦天火明命、櫛玉命、饒速日命である。宮若市の天照神社の御祭神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が、三柱に分けられたような神になっている。
この地が、伊勢の國である。40番にある「嗚呼見の浦」もここから近い所にある。
『伊勢國風土記』逸文に書かれている伊勢の國というのは、現三重県の伊勢の國では無かった。豊国の中であり苅田町辺りであった。持統天皇が行幸した伊勢國も苅田町の白庭神社(御所山古墳)の地である。天照大神を拝む為に行幸している。
下記は、戦前に描かれた『神武天皇東征地図』である。福永説の神武東征では、神武天皇は九州から出ていないが、苅田町にいた伊勢津彦が天日別命に追いやられて、現在の三重県(伊勢國)へ逃れていったルートだった。その地に現在の伊勢神宮がある。
一番最初の伊勢神宮の地は、宮若市磯光にある天照神社で、そこから苅田町の白庭神社の地に遷った。ここが元伊勢の地であり、ここから現在の三重県に遷っていった。
また、元伊勢と言われる神社は、日本海沿岸にも点在する。したがって、伊勢神宮は、九州の地から東へ東へと遷っていった。
柿本人麻呂が仕えた天智天皇が行幸された伊勢の國も持統天皇が行幸された伊勢の國も苅田町の白庭神社(御所山古墳)辺りの地であった。
ということは、40番歌にある「嗚呼見の浦」は、北九州市小倉南区の朽網と思われる。「網」の土地である。ここの海岸線の土地が、「嗚呼見の浦」と呼ばれていたのであろう。白庭神社からは、数キロしか離れていない土地である。
白庭神社(御所山古墳)の地に伊勢神宮が有ったとした時、元々は、苅田町の名前は、天照大神が祀られている土地の「神田」であったハズであるが、壬申の乱後、天武天皇(大皇弟=筑紫君薩野馬)によって書き換えられた。だから、「苅田」を無理やり「かんだ」と読ませている。
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『神田』は、稲田があった場所。
地名の由来は、その昔、伊勢大神宮に稲の初穂を納める田んぼ=神田(御戸代、御田ともいう)があったことに由来する。東京の「神田」が最も有名な場所であるが、同じ由来の「神田」という地名が全国に存在する。