倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
      於:小倉城庭園研修室  記紀万葉研究家 福永晋三


※  豊国の万葉集⑪ 巻第一 40番〜84番
 (令和5年7月26日 於:小倉城庭園研修室 主催:北九州古代史研究会)

 「万葉集」巻第一 雑歌 40番〜44番  (倭歌の伊勢の國は、苅田町辺り)

 巻第一の40番・41番・42番の三首から入る。

 万葉集の「伊勢国」は、何処(いづこ)
 伊勢國時、(とどまれる)(みやこ)柿本朝臣人麻呂作歌
 嗚呼見乃浦尓 船乗為良武 𡢳嬬等之 珠裳乃須十二 四寳三都良武香

40

 嗚呼()()の浦に 舟乗りすらむ をとめらが 玉裳(たまも)の裾に 潮満つらむか
 あみの浦に舟乗りしているおとめ(女官)たちの玉裳の裾に海水が浸かって美しい。潮が満ちてきたのだろうか。
 釼著 手節乃埼二 今日毛可母 大宮人之 玉藻苅良武

41

 (くしろ)()手節(たふし)の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ
 飾り立てたくしろのように美しい手節の崎。今日も大宮人(女官)たちが玉藻を刈りとっていることであろうか。
 万葉集の「伊勢国」は、何処(いづこ)
 潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎

42

 潮騒に 伊良虞(いらご)の島() 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島()
 潮が騒ぎ立てるいらごの島のあたりを漕ぐ舟に恋しい妹は乗っているだろうか。あの荒い島のめぐりを。
 當麻(たぎまの)真人(まひと)麻呂(まろ)妻作歌
 吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六

43

 我が背子(せこ)は いづく行くらむ(奥つ物)名張の山を 今日か越ゆらむ
 私の夫はどのあたりを旅しているのだろう。今日あたり名張の山を越えているだろうか。
 万葉集の「伊勢国」は、何処(いづこ)
 石上(いそのかみ)大臣従駕(おほみともにして)作歌
 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞

44

 我妹子(わぎもこ)を いざ見の山を 高みかも 日本(やまと)の見えぬ 国遠みかも
 我が妻をいざ見ようと思う、その言葉を名とするいざみの山が高いとてか、日本の国が見えない。それとも国の遠い為であろうか。
 右、日本紀に曰はく、「朱鳥(あかみとり)六年壬辰(みずのえたつ)の春三月丙寅(ひのえとら)の朔の戊辰(つちのえたつ)浄廣肆(じょうこうし)廣瀬(ひろせの)(おほきみ)(たち)を以ちて留守(つかさ)と為す。是に中納言三輪朝臣高市麻呂其の冠位(かがふり)を脱きて(みかど)擎上(ささ)げ、重ねて諌めて曰はく、 農作(なりはひ)(さき)車駕(きみ)未だ以ちて動く()からず。 辛未(かのとひつじ)、天皇(こと)に従はず、 遂に伊勢に幸す。五月乙丑(きのとうし)の朔の庚午(かのえうま)阿胡(あご)行宮(かりみや)(いでま)す」といへり。

*1

やまと」の万葉仮名に「日本」が用いられている。日本という国号が使われるようになったのは、西暦670年(天智天皇九年)に当る年、『三国史記 新羅本紀文武王十年十二月』記事に「倭国更ためて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。 以に名と為すと。」とあるから、44番歌は、明らかに天智天皇の時代以降に詠まれた歌という事が表記の上からもわかる。

 左注の内容は、『日本書紀』持統天皇紀にある。この左注にある「右」というのが、40番〜44番までのどの歌を指すのか?
 福永説では、44番歌のみが、左注の時代の歌である。「やまと」の表記(万葉仮名)が、「日本」であり、天智天皇の時代以降の歌であるからこの歌は、持統天皇の時代の左注と合っている歌と考えられる。

 40番・41番・42番の三首の題詞にある「伊勢國」の天皇が、本当に持統天皇なのか? という疑いを持っている。
 通説では、柿本朝臣人麻呂は、天武・持統天皇に仕えた。あるいは、持統・文武天皇に仕えた宮廷歌人とされている。福永説では、柿本朝臣人麻呂は、天智天皇に仕えた宮廷歌人とした。
 したがって、この「伊勢國」の主語は、天智天皇である。この伊勢國は、何処か

 通説では、伊勢國はすぐに三重県として、この40番にある「嗚呼()()の浦」も三重県鳥羽市小浜の南岸という説がある。この「嗚呼見の浦」も何処だろう?

 『伊勢國風土記』逸文が、『萬葉集註釋』(仙覚抄)卷第一の中に残っている。その内容が、下記の通りである。
 冒頭に「伊勢の國の風土記に云はく」とあり、三重県の事が書かれていると思われているが、記事に書かれている伊勢の國は、三重県(近畿方面)の土地の事ではなかった。

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 京築方面の神武東征(風土記逸文)
 伊勢の國の風土記に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊の十二世の孫、天日別命(あめのひわけのみこと)(こと)()けし所なり。天日別命神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇(したが)ひて紀伊の國熊野村に到りき。時に、金の烏の導きの(まま)中州に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇大部(おほとも)日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる(ともがら)膽駒(いこま)長髓を早く征罰せよ」とのりたまひ、(また)天日別命に勅りたまひしく、「國、天津の方に有り。其の國を平けよ」とのりたまひて、即ち(しるし)の劒を賜ひき。天日別命、勅を奉じてに入ること數百里。其の邑に神有り、名を伊勢津彦と曰へり。天日別命、問ひけらく、「汝の國を天孫(たてまつ)らむや」といへば、答へけらく、「吾此の國を()ぎて居住むこと日久し。命を聞き敢へじ」とまをしき。天日別命、兵を發して其の神を(りく)さむとしき。時に、(かしこ)み伏して(まを)しけらく、「吾が國は(ふくつ)天孫(たてまつ)らむ。吾は敢へて居らじ」とまをしき。天日別命、問ひけらく、「汝の

 記事に書かれている土地は、『第二次神武東征』において、下記の通り比定している。

西の宮:糸島市の高祖(たかす)神社

熊野村:飯塚市の立岩丘陵にある熊野神社

中州(なかつくに):飯塚市の立岩丘陵

菟田(うだ)下縣(しもつあがた):田川郡川崎町の天降神社

 「東に入ること數百里」とあるのは、田川郡川崎町、あるいは飯塚市の立岩丘陵から東へ數百里の距離だという事である。
 福永説では、周里「1里=67.5m」を採っているから、500里〜600里とした場合、33.75km〜40.5kmとなる。飯塚市立岩から苅田町まの距離は、国道201号線経由のルートで37kmである。

 東に數百里行った処が、伊勢の國であり、伊勢津彦がいた國である。その國を神武天皇に仕えた天日別命が、攻め立てて降伏させた。これが、「京築方面における神武東征」である。

耳梨の村:香春二ノ岳(耳成山)の麓の村

橿原の宮:香春町高野の鶴岡八幡神社

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 (風土記逸文)(つづき)
去らむ時は、何を以ちてか(しるし)()さむ」といへば、(まを)しけらく、「吾は今夜を以ちて、八風を起こし海水(うしほ)を吹き、波浪に乘りて東に入らむ。此は則ち吾が()る由なり」とまをしき。天日別命整へて窺ふに、中夜(よなか)(いた)(ころ)、大風四もに起りて波瀾を扇擧(うちあ)げ、光耀(てりかがや)きて(ひる)の如く、陸も海も共に(あきら)かに、遂に波に乘りて東にゆきき。古語(ふること)に、神風の伊勢國、常世の浪寄する國と云へるは、(けだ)しくは此れ、之れを謂ふなり。伊勢津彦の神は近く信濃の國に住ましむ。)天日別命、此の國を懷け柔して、天皇復命(かへりごと)まをしき。天皇大いに歡びて、詔りたまはく、「國は宜しく國神の名を取りて、伊勢と號けよ」とのりたまひて、即ち天日別命封地(よさしどころ)の國と爲し、宅地(いへどころ)大倭耳梨の村に賜ひき。(或本に曰はく、天日別命、詔を奉じて、熊野の村より直に伊勢國に入り、荒ぶる神を殺戮し、(まつろ)はぬものを(きた)し平げて、山川を堺ひ、(くに)邑を定め、然して後、橿原の宮復命(かへりごと)まをしき。)
(萬葉集註釋 卷第一)

*2

萬葉集註釈』(萬葉集抄、仙覚抄)は、鎌倉時代初期における天台宗の学問僧 仙覚(せんがく)が、文永6年(1269年)に完成させた。

 また、天日別命を祀る神社が田川市に存在する。春日神社である。

 伊勢の國(伊勢神宮)に祀られている神は、天照大神である。そうした時に苅田町に白庭神社(御所山古墳)があり、御祭神が天照國照彦天火明命、櫛玉命、饒速日命である。宮若市の天照神社の御祭神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が、三柱に分けられたような神になっている。
 この地が、伊勢の國である。40番にある「嗚呼()()の浦」もここから近い所にある。

 伊勢神宮は何処か

 白庭神社(御所山古墳)

【鎮座地】
苅田町大字与原(よばる)
御所山(ごしょやま)868番地
【御祭神】
 天照國照彦天火明命
 櫛玉命、饒速日命

 大己貴(おおなむち)命、罔象女(みずはのめ)
地図「白庭神社(御所山古墳)」
「白庭神社(御所山古墳)」
「白庭神社(御所山古墳)」

 『伊勢國風土記』逸文に書かれている伊勢の國というのは、現三重県の伊勢の國では無かった。豊国の中であり苅田町辺りであった。持統天皇が行幸した伊勢國も苅田町の白庭神社(御所山古墳)の地である。天照大神を拝む為に行幸している。

 下記は、戦前に描かれた『神武天皇東征地図』である。福永説の神武東征では、神武天皇は九州から出ていないが、苅田町にいた伊勢津彦が天日別命に追いやられて、現在の三重県(伊勢國)へ逃れていったルートだった。その地に現在の伊勢神宮がある。
 一番最初の伊勢神宮の地は、宮若市磯光にある天照神社で、そこから苅田町の白庭神社の地に遷った。ここが元伊勢の地であり、ここから現在の三重県に遷っていった。
 また、元伊勢と言われる神社は、日本海沿岸にも点在する。したがって、伊勢神宮は、九州の地から東へ東へと遷っていった。

「神武天皇東征地図」

元伊勢

伊勢國

天日別命に追われた伊勢津彦の一族は、
京築(元伊勢)⇒ 現在の三重県の伊勢神宮の地へ逃れて
行った。但し、神武天皇は、近畿へ東征していない。

 柿本人麻呂が仕えた天智天皇が行幸された伊勢の國も持統天皇が行幸された伊勢の國も苅田町の白庭神社(御所山古墳)辺りの地であった。
 ということは、40番歌にある「嗚呼()()の浦」は、北九州市小倉南区の朽網(くさみ)と思われる。「(あみ)」の土地である。ここの海岸線の土地が、「嗚呼見の浦」と呼ばれていたのであろう。白庭神社からは、数キロしか離れていない土地である。

 白庭神社(御所山古墳)の地に伊勢神宮が有ったとした時、元々は、苅田(かんだ)町の名前は、天照大神が祀られている土地の「神田(かんだ)」であったハズであるが、壬申の乱後、天武天皇(大皇弟=筑紫君薩野馬)によって書き換えられた。だから、「苅田」を無理やり「かんだ」と読ませている。

*3

神田(かんだ)』は、稲田があった場所。
 地名の由来は、その昔、伊勢大神宮に稲の初穂を納める田んぼ=神田(しんでん)御戸代(みとしろ)御田(みた)ともいう)があったことに由来する。東京の「神田」が最も有名な場所であるが、同じ由来の「神田」という地名が全国に存在する。