「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宮若市・鞍手郡の(いにしえ)

※ 宮若市・鞍手郡の古(いにしえ)
 (令和5年9月30日(土) 宮若市・鞍手郡ボランティア連絡協議会 於:小竹町総合社会福祉センター)

(6)神武崩御後、倭国大乱へ経て卑弥呼が共立される

魏志倭人伝中の後漢代の記録
一二一
辛酉(かのととり)年の春正月(むつき)庚辰(かのえたつ)朔に、天皇、橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。」 即位
「明年の秋九月(ながづき)乙卯(きのとう)丙寅(ひのえとら)畝傍山東北陵に葬りまつる。」
一三七
皇子(かむ)渟名(ぬな)川耳(かはみみ)手研(たぎし)(みみ)命大王を弑し、王位を奪う。太歳己卯(つちのとう)
一三九
    桓・霊の間倭国大乱
        (謝承・范曄後漢書)
豊国  対  火国
一四六~一八九
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)

 神武天皇の崩御後に倭国大乱を経て、西暦200年に卑弥呼が共立される。卑弥呼の時代は、神武天皇より後の時代に当る。
 上記の魏志倭人伝(原文)に「其國本亦以男子王。住七八十年、倭國亂相攻伐歴年。乃共立一女子王。名日卑彌呼」のあるように倭国では、卑弥呼の共立以前に男王が7〜80年統治していた。その初代の男王が、西暦121年(辛酉年)に即位した神武天皇である。

※6-1

 魏志倭人伝にある「其國」というのは、倭(邪馬臺(やまと))国の事である。

※6-2

 後漢の桓帝・霊帝の治世は、西暦146年 〜 189年。

 

倭国大乱から女王共立
 神武の薨去後、倭国大乱(欠史八代)が起き、二〇〇年卑弥呼共立される。
一七四年
 祟神天皇即位。
一七八年
「国内に疫病が多く、民の大半が死亡する。」
一七九年
「人民が流浪し、ある者は反乱した。天皇は天照大神倭大国魂(=大物主神)、二神を、宮殿内に共に祭り神祇(あまつかみくにつかみ)に罪を請うた。」
 大嘗祭(だいじょうさい)の起源?)
一八〇年
「時に、大物主神神明(あまてらす)(やまと)迹迹日(ととび)百襲(ももそ)姫命に憑いて、我を祭らばは治まるであろうと告げた。神の教えのとおりに祭ったが霊験はなかった。」
大嘗祭(だいじょうさい)

主基殿

悠紀殿

 『崇神紀』に出てくる「(やまと)迹迹日(ととび)百襲(ももそ)姫命」が、卑弥呼と思われる。

 

宮原遺跡(香春町)
Googleマップ(香春町宮原遺跡)
Googleマップ(宮原遺跡_箱式石棺墓)

箱式石棺墓

前方後円墳

 上記の地図に示す香春町の宮原に前方後円墳らしい跡が見つかっている。そこの少し北の場所からは、吉野ケ里遺跡と同じように石棺墓の中から後漢式鏡が出土している。

 

宮原遺跡出土の銅鏡
宮原遺跡の銅鏡の出土地
宮原遺跡出土の銅鏡
宮原遺跡出土の銅鏡
香春町歴史資料館
宮原遺跡の箱式石棺墓

 石棺墓が出土した場所が、 宮原遺跡 である。発掘調査で発見されたのでないので、以前は、右上の説明板の写真にあるように石棺の石を畑の横に積み上げていた。
 今は、左上の写真のように香春町歴史資料館の敷地内に箱式石棺として復元して展示されている。出土物として、写真の通り後漢式鏡が3枚出土している。また、石棺の内側には、赤色の顔料である弁柄顔料であるが塗られていた。

 

崇神天皇紀
  香春町鶴我(つるが)家系図
系図「鶴我家 都怒我号角鹿」
𢈘
漢字「禾戈」
系図「始祖 阿羅斯等」
由緒「角鹿神社
写真「角鹿神社
写真「角鹿神社

 現香春町の町長が、鶴我氏である。この鶴我家の先祖が、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと) である。この阿羅斯等が、最初になぜか香春にやって来て、後に敦賀の気比 に行った。

 

崇神天皇紀
  香春町鶴我(つるが)家系図
崇神天皇御宇
日本記曰(一云、初)都怒我阿羅斯等、有國之時、黃牛負田器、將往田舍。黃牛忽失、則尋迹覓之、跡留一郡家中、時有一老夫曰「汝所求牛者、於此郡家中。然郡公等曰『由牛所負物而推之、必設殺食。若其主覓至、則以物償耳』卽殺食也。若問牛直欲得何物、莫望財物。便欲得郡內祭神云爾。」俄而郡公等到之曰「牛直欲得何物。」對如老父之教。其所祭神、是白石也、乃以白石授牛直。因以將來置于寢中、其神石化美麗童女。於是、阿羅斯等大歡之欲合、然阿羅斯等去他處之間、童女忽失也。阿羅斯等大驚之、問己婦曰「童女何處去矣。」對曰「向東方。」則尋追求、遂遠浮海以入日本國。所求童女者、(詣于難波、爲比賣語曾社神、且)至豐國(々)前郡、(復)爲比賣語曾(社)神。(並二處見祭焉。)〇阿羅斯等者今有田川縣採銅所現人神社。

 『日本書紀』崇神紀の記事と同じ内容が、鶴我家の家系図にある由緒書きに残っている。

 

右:神原神社古墳、下:荒神谷遺跡

神原神社古墳(銅鏡)
荒神谷遺跡(銅鐸・銅矛)
荒神谷遺跡(銅剣)

 都怒我阿羅斯等は、日本海を東へと敦賀に行く途中、出雲(島根県)の荒神谷遺跡等の大物主の子孫たちの一族を攻撃し滅ぼしていった。

※6-3

 荒神谷遺跡からは、銅鐸6個と銅矛16本、銅剣358本が出土している。

 

黒田古墳(南丹市)
木部屋に木棺(後漢の鏡も出土)、箸墓古墳より古い築造年代(2019年3月6日)

黒田古墳(南丹市)
後漢(双頭竜文鏡)

整備された黒田古墳(南丹市教育委員会)

2世紀中頃の中国後漢で製作された双頭竜文鏡
「君宜官 至位三公」
「(この鏡を持つ者は)高い位に就く」

 南丹市の黒田古墳から後漢式鏡が出土しているという事は、都怒我阿羅斯等が、敦賀へ行った関係が考えられる。

 

倭国東鯷(とうてい)
一九六 曹操、献帝を戴き、屯田制を施く
    (この後、東鯷人、魏都来貢)
二〇五 遼東の公孫氏、朝鮮に帯方郡をおく
二〇八 赤壁の戦、中国三分の形勢となる
二二〇 魏、九品中正をおく、曹丕(文帝)献帝を廃し、
    魏の帝位につき、漢滅ぶ
二二一 蜀の劉備、帝位につき、蜀漢と号す
二二九 呉王孫権、呉の帝位につき、建業に都す
二三〇 孫権、将軍衛温・諸葛直を夷州(狗奴国)
    州(東鯷国)
に遣わす
二三八 魏、遼東の公孫氏を亡ぼす(呉の赤烏元年銘神
    獣鏡
山梨県に出土)
二三九 倭国(邪馬臺国)卑弥呼、魏に朝貢
二四〇 魏、倭国卑弥呼に「親魏倭王」印を仮授す
    (東鯷国と断交か)
二四四 呉の赤烏七年銘神獣鏡兵庫県に出土
二六三 魏、蜀漢を亡ぼす
二六五 司馬炎(武帝)晋をおこす、魏亡ぶ
二六六 倭国(邪馬臺国)臺与、晋に朝貢
二八〇 晋、呉を亡ぼして中国を統一す
二九七 史家陳寿没(『三国志』「魏志倭人伝」を編む)

 卑弥呼の時代の日本列島には、倭国と東鯷国があった。

 

卑弥呼の時代の東アジア
地図「紀元前後のアジア」(後漢時代、倭国と東鯷國)

 中国大陸では、後漢が西暦220年に滅びて、魏・呉・蜀の三国時代へ入る。この時代を地図で示すと鞍手郡を含む赤線の範囲が倭国であり、緑色の範囲が、東鯷国である。
 したがって、近畿地方に倭(邪馬臺(やまと))国があったハズが無い。近畿地方にあった国は、東鯷国である。この事が、中国史に書かれている。

 

卑弥呼は大辛国(大伽耶(かや)国)から来た!

地図「大伽耶国」
土器「大伽耶国」

立岩甕棺と遠賀川式土器

土器「大伽耶国」
「遠賀川式土器」

 卑弥呼は、朝鮮半島から海を渡って来た。

 

韓地に於ける大姫命
     「白石の玉
倭三山(香春岳)
     「白石の山
阿加流比売(あかるひめ)(応神記)
(やまと)迹迹日(ととび)百襲(ももそ)姫命
     (崇神紀)
卑弥呼(魏志倭人伝)
新羅から河原に来た神
   (豊前国風土記)
(太宰管内志)
香春ノ神は比売語曽(ひめこそ)! 比売(こそ) ⇒ 卑弥呼
(香春神社)
銅二年((七〇九年)) 大辛国()りの大(物主の)姫(卑弥呼)息長(おきなが)(たらし)比売(ひめ)命(神功皇后)(福永説)
香春神社
「香春岳」

 香春神社の祭神、辛国息長大姫大自命は、和銅二年(709年)から祭られている。その名前にある「息長(=神功皇后)」の部分を除き、並べ替えると「大辛国自りの大(物主の)姫」となり、『日本書紀』にある倭迹迹日百襲姫命と同じ出自になり、卑弥呼ではないかと考えている。
 『豊前国風土記』では、「新羅から河原に来た神」とあり、この神は卑弥呼の事である。だから、709年以前までは、香春一ノ岳に卑弥呼が祭られていたらしい。今は、大分県東国東郡の姫島にある比売語曽神社に和銅四年(711年)に流されたようである。神様が、人間の手によって流されるという話である。

 

末盧國はどこか(福永説)
宗像市田熊石畑遺跡(宗像高女跡)
Google Earth「田熊石畑遺跡(いせきんぐ宗像)」
「発掘時の遺構」
「武器形青銅器」
「宗像市釣川」

 卑弥呼が、景初三年(239年)に魏の帯方郡に遣いを出し、翌年に魏から遣いがやって来た。一支(いき)國から海を渡り最初に上陸した末盧國は、何処か?
 壱岐から海を東の方向に渡った先、宗像市のいせきんぐ宗像(田熊石畑遺跡)である。この遺跡から弥生時代の遺物が多数出土している。

 

伊都(いつ)へ 東南陸行五百里
魏使のルート(末盧國から邪馬台国へ陸行)
「古遠賀湾図」

新北

 女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国、之を畏れ憚る。常に伊都(いつ)に治し、国中に於いて刺史の如き有り。王使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、及び郡の倭国に使するや、皆に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。(中略)

 魏志倭人伝に末盧國から「東南陸行五百里、到伊都國」とあるから、伊都國は、小竹町辺りになる。

※6-4

 「伊都國」の読み方は、「いと國」ではなく、「いつ國」と読む。

 

地図「中国鏡の出土分布」
卑弥呼の鏡=内行花文鏡
「写真:赤烏元年鏡」

  赤烏元年鏡
(Ⓒ山梨県)

「写真:内行花文鏡」

  内行花文鏡
(Ⓒ福智町)

『魏志倭人伝』(銅鏡100枚)

(Ⓒ宮内庁書陵部)

 山梨県から出土した赤烏元年銘の神獣鏡鏡は、三角縁神獣鏡の元となった呉の鏡であり、魏から卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」は、内行花文鏡(後漢式鏡)である。
 地図に示した内行花文鏡(後漢式鏡)が出土した場所の一つにこの講演の最初で紹介した汐井掛(しおいがけ)遺跡も含まれている。

 

卑弥呼の死
二四七年
   其の((正始))八年、太守、王頎官に到る。倭女王卑弥呼狗奴(くぬ)国王卑弥(ひみ)弓呼(くこ)素より和せず。、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史(さいそうえんし)、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為りて之を告諭(こくゆ)す。(魏志)
『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」
航空写真「赤村内田の前方後円型地形」

 卑弥呼は、平成筑豊鉄道田川線の赤村、内田駅のすぐ西隣にある全長460mの前方後円墳 に葬られていると思われる。
 この写真は、1970年代の航空写真である。周りに残っている池を含め堀の跡(周濠跡)と思われる地形も見える。しかし、海の道むなかた館の館長であるN氏は、これは、前方後円墳型の自然地形だと言った。

 

邪馬臺(やまと)のその後
 (やまと)迹迹日(ととび)百襲(ももそ)姫命大物主神の妻となった。神は昼に現れないで夜だけ来た。倭迹迹日姫は翌朝に神の麗しい姿を見たいと言った。大神は翌朝姫の櫛箱に入って居よう。私の姿に驚いてはならないと答えた。翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がいた。姫は驚き叫んだ。大神はたちまちに人の姿となって妻に言った。「お前は私に恥をかかせた。私はお前に恥をかかせてやる。」と。神は空に上り三輪山(香春岳)に帰った。姫は仰ぎ見て後悔し、ドスンと座った。すると箸に陰部をついて死んだ。そこで大
市に葬った。時の人
はその墓を名付けて、
箸墓といった。
 邪馬臺(やまと)国の女王卑弥呼大物主をつまり鷹羽の神を祭った巫女(ふじょ)王だった。狗奴(くぬ)国王卑弥(ひみ)弓呼(くこ)に敗れたのだろうか、卑弥呼は責任を問われ自決したようだ。
Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」

 赤村内田のこの前方後円墳が、倭迹迹日百襲姫命の箸墓。つまり、卑弥呼の墓であると思っている。実は、奈良県桜井市箸中に箸墓があるが、これは偽物である。何故かと言えば、この古墳からは、埴輪が出土している。
 魏志倭人伝に書いているように「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。徇葬者奴婢百餘人。」とあり、卑弥呼の墓は、徇葬墓である。垂仁天皇が、徇葬という事が酷たらしいので野見宿禰に人形・馬形等の埴輪を作らせ、徇葬を止めさせて埴輪を置くようにした。
 したがって、埴輪が出土している奈良県の箸墓は、卑弥呼の墓である訳が無い。

 

新北にがあった時
 伊弉諾尊
日本(やまと)は浦安の国細戈(くわしほこ)千足(ちだ)る国磯輪上(しわかみ)
 秀真国(ほつまくに)。」と名付けたとある。
  (神武紀)
「古遠賀湾図(白黒)」
「古遠賀湾図」

新北

 赤村内田のこの前方後円墳が、倭迹迹日百襲姫命の箸墓。つまり、卑弥呼の墓であると思っている。

 

新北にがあった時
新北津跡
鞍手町、熱田神社・元宮の前の田んぼ

 (かつ)て卑弥呼の時代には、鞍手町新北の熱田神社の元宮があった所の前の田んぼ(海抜0m)は、深さ20〜30mの海水の古遠賀湾が入り込んでいた。
 田んぼの手前の道路が、汀線(ていせん)(なぎさの線)の跡である。

 

新北にがあった時
『魏志倭人伝』
 女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏れ憚る。
 常に伊都(いつ)に治し、国中に於いて刺史の如き有り。
 王使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、及び郡の倭国に使するや、皆に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。 (中略)
「古遠賀湾図」

新北

 魏志倭人伝の記事通りに伊都國に一大率が置かれていたという事は、鞍手町に一大率が居た。一大率は物部氏の事で、この物部氏が卑弥呼の国を軍事的に管轄していた。
 「皆に臨みて」の「津」があった場所が、「新北津」である。鞍手郡が伊都國であり、その先に邪馬臺国があった。

 

新北にがあった時

剣岳城

「絵(剣岳城)」

(Ⓒ鞍手町教育委員会)

 東南陸行五百里、伊都(いつ)に到る。官を爾支(にき)と曰ひ、

日本武尊の本貫地

八剱神社(上宮)

写真(八劔神社・上宮)

 鞍手の日本武尊は、魏志倭人伝中の伊都国王大率伊都(いつ)大率)ではないか。

 

日本武尊は伊都(いつ)爾支(にき)だった

Ⓒ建部大社