「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 宮若市・鞍手郡の古(いにしえ)
(令和5年9月30日(土) 宮若市・鞍手郡ボランティア連絡協議会 於:小竹町総合社会福祉センター)
(6)神武崩御後、倭国大乱へ経て卑弥呼が共立される
神武天皇の崩御後に倭国大乱を経て、西暦200年に卑弥呼が共立される。卑弥呼の時代は、神武天皇より後の時代に当る。
上記の魏志倭人伝(原文)に「其國本亦以二男子一為レ王。住七八十年、倭國亂相攻伐歴レ年。乃共立二一女子一為レ王。名日二卑彌呼一。」のあるように倭国では、卑弥呼の共立以前に男王が7〜80年統治していた。その初代の男王が、西暦121年(辛酉年)に即位した神武天皇である。
※6-1
魏志倭人伝にある「其國」というのは、倭(邪馬臺)国の事である。
※6-2
後漢の桓帝・霊帝の治世は、西暦146年 〜 189年。
『崇神紀』に出てくる「倭迹迹日百襲姫命」が、卑弥呼と思われる。
上記の地図に示す香春町の宮原に前方後円墳らしい跡が見つかっている。そこの少し北の場所からは、吉野ケ里遺跡と同じように石棺墓の中から後漢式鏡が出土している。
石棺墓が出土した場所が、 宮原遺跡 である。発掘調査で発見されたのでないので、以前は、右上の説明板の写真にあるように石棺の石を畑の横に積み上げていた。
今は、左上の写真のように香春町歴史資料館の敷地内に箱式石棺として復元して展示されている。出土物として、写真の通り後漢式鏡が3枚出土している。また、石棺の内側には、赤色の顔料である弁柄顔料であるが塗られていた。
『日本書紀』崇神紀の記事と同じ内容が、鶴我家の家系図にある由緒書きに残っている。
都怒我阿羅斯等は、日本海を東へと敦賀に行く途中、出雲(島根県)の荒神谷遺跡等の大物主の子孫たちの一族を攻撃し滅ぼしていった。
※6-3
荒神谷遺跡からは、銅鐸6個と銅矛16本、銅剣358本が出土している。
南丹市の黒田古墳から後漢式鏡が出土しているという事は、都怒我阿羅斯等が、敦賀へ行った関係が考えられる。
卑弥呼の時代の日本列島には、倭国と東鯷国があった。
中国大陸では、後漢が西暦220年に滅びて、魏・呉・蜀の三国時代へ入る。この時代を地図で示すと鞍手郡を含む赤線の範囲が倭国であり、緑色の範囲が、東鯷国である。
したがって、近畿地方に倭(邪馬臺)国があったハズが無い。近畿地方にあった国は、東鯷国である。この事が、中国史に書かれている。
卑弥呼は、朝鮮半島から海を渡って来た。
香春神社の祭神、辛国息長大姫大自命は、和銅二年(709年)から祭られている。その名前にある「息長(=神功皇后)」の部分を除き、並べ替えると「大辛国自りの大(物主の)姫」となり、『日本書紀』にある倭迹迹日百襲姫命と同じ出自になり、卑弥呼ではないかと考えている。
『豊前国風土記』では、「新羅から河原に来た神」とあり、この神は卑弥呼の事である。だから、709年以前までは、香春一ノ岳に卑弥呼が祭られていたらしい。今は、大分県東国東郡の姫島にある比売語曽神社に和銅四年(711年)に流されたようである。神様が、人間の手によって流されるという話である。
卑弥呼が、景初三年(239年)に魏の帯方郡に遣いを出し、翌年に魏から遣いがやって来た。一支國から海を渡り最初に上陸した末盧國は、何処か?
壱岐から海を東の方向に渡った先、宗像市のいせきんぐ宗像(田熊石畑遺跡)である。この遺跡から弥生時代の遺物が多数出土している。
魏志倭人伝に末盧國から「東南陸行五百里、到二伊都國一。」とあるから、伊都國は、小竹町辺りになる。
※6-4
「伊都國」の読み方は、「いと國」ではなく、「いつ國」と読む。
山梨県から出土した赤烏元年銘の神獣鏡鏡は、三角縁神獣鏡の元となった呉の鏡であり、魏から卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」は、内行花文鏡(後漢式鏡)である。
地図に示した内行花文鏡(後漢式鏡)が出土した場所の一つにこの講演の最初で紹介した汐井掛遺跡も含まれている。
卑弥呼は、平成筑豊鉄道田川線の赤村、内田駅のすぐ西隣にある全長460mの前方後円墳 に葬られていると思われる。
この写真は、1970年代の航空写真である。周りに残っている池を含め堀の跡(周濠跡)と思われる地形も見える。しかし、海の道むなかた館の館長であるN氏は、これは、前方後円墳型の自然地形だと言った。
赤村内田のこの前方後円墳が、倭迹迹日百襲姫命の箸墓。つまり、卑弥呼の墓であると思っている。実は、奈良県桜井市箸中に箸墓があるが、これは偽物である。何故かと言えば、この古墳からは、埴輪が出土している。
魏志倭人伝に書いているように「卑彌呼以死、大作レ冢、徑百餘歩。徇葬者奴婢百餘人。」とあり、卑弥呼の墓は、徇葬墓である。垂仁天皇が、徇葬という事が酷たらしいので野見宿禰に人形・馬形等の埴輪を作らせ、徇葬を止めさせて埴輪を置くようにした。
したがって、埴輪が出土している奈良県の箸墓は、卑弥呼の墓である訳が無い。
赤村内田のこの前方後円墳が、倭迹迹日百襲姫命の箸墓。つまり、卑弥呼の墓であると思っている。
嘗て卑弥呼の時代には、鞍手町新北の熱田神社の元宮があった所の前の田んぼ(海抜0m)は、深さ20〜30mの海水の古遠賀湾が入り込んでいた。
田んぼの手前の道路が、汀線(なぎさの線)の跡である。
魏志倭人伝の記事通りに伊都國に一大率が置かれていたという事は、鞍手町に一大率が居た。一大率は物部氏の事で、この物部氏が卑弥呼の国を軍事的に管轄していた。
「皆津に臨みて」の「津」があった場所が、「新北津」である。鞍手郡が伊都國であり、その先に邪馬臺国があった。