倭歌は歴史を詠う 「豊国の万葉集」
於:小倉城庭園研修室 記紀万葉研究家 福永晋三
「万葉集」巻第二 141〜146番 (倭国本朝の血筋を引く有間皇子の挽歌)
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通説の有間皇子
ウィキペディアに以下の通り、有間皇子について書かれている。
有間皇子
有間皇子(舒明天皇12年(640年)- 斉明天皇4年11月11日(658年12月11日))は、飛鳥時代の皇族。孝徳天皇の皇子、母は小足媛。
舒明天皇12年(640年)、軽皇子(後の孝徳天皇)の皇子として誕生。母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。天智天皇(父方の従兄にあたる)の娘、明日香皇女・新田部皇女姉妹は母方の従妹になる。
皇極天皇4年6月14日(645年7月12日)に父が即位し孝徳天皇となる。孝徳天皇は同年の大化元年12月9日(646年1月1日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は白雉4年(653年)に都を倭京に戻すことを求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちのほとんどや孝徳天皇の皇后である間人皇女までも、中大兄に従って倭京に戻ってしまった。失意の中、孝徳天皇は白雉5年10月10日(654年11月24日)に崩御した。このため、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)、孝徳天皇の姉の宝皇女(皇極天皇)が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として重祚した。
有間皇子
(続き)
父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。
なお近年、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている(森浩一『万葉集の考古学』など)。
ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた。斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與二赤兄一知。吾全不レ知)と答えたといわれる。翌々日に藤白坂で絞首刑に処せられた。享年19。
有間皇子
(続き2)
なお、処刑に先んじて、磐代の地で皇子が詠んだ2首の辞世歌が『万葉集』に収録されている。ただしこの2首については、民俗学者・折口信夫により後世の人物が皇子に仮託して詠んだものではないかとも考えられている(『折口信夫全集』第29巻)。
有間皇子の死後、大宝元年(701年)の紀伊国行幸時の作と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が『万葉集』に残されている。以降、歴史から忘れ去られた存在となるが、平安後期における万葉復古の兆しと共に、幾ばくか史料に散見されるようになり、磐代も歌枕となる。ただし『俊頼髄脳』では、辞世歌が父・孝徳と喧嘩して出奔した際の歌とされているなど、伝説化の一途を辿る
ようになる。極端な例では、江戸時代の『百人一首』
の注釈書などでは「後即位」とまでなっている。また、
藤白神社の境内には、有間皇子を偲んで有間皇子神社
が創建された。藤白坂には「藤白の み坂を越ゆと 白
樽の わが衣手は 濡れにけるかも」(『万葉集』巻9・
1675)という、皇子を偲んだものと思しき作者不詳の
歌碑も残っている。
(Wikipedia)
(Ⓒわた雪さゆみ)
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以下、福永説について
本講演の有間皇子の歌は、下記の内容を理解しなければ分からない。『日本書紀』孝徳紀には、筑紫国(倭国本朝)の記事と豊国(倭国東朝)の記事が絡み合って書かれている。
孝徳・斉明・天智紀の倭国本朝と倭国東朝(福永説)
孝徳白雉二年
是歳、新羅の貢調使知萬沙飡 等、唐の國の服着て、筑紫に泊れり。朝庭恣に俗移せることを惡みて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請して曰さく、「方に今新羅を伐ちたまはずは、後に 必 ず當に悔有らむ。其の伐たむ状は、擧力むべからず。難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳を浮け盈てて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、易く得べし」とまうす。
白雉元年
冬十二月、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(行橋市長井浜附近か)を造営し、そこを都と定めた。
(複都制・両京制)
白雉四年
天智天皇は倭京(倭飛鳥河辺行宮=香春町古宮ヶ鼻)に遷都。臣下の大半が皇太子(天智天皇)に随って遷った。
左側に示した孝徳白雉2年(651年)の記事は、筑紫側(倭国本朝)に関する記事で唐・新羅に敵対する内容について書かれている。
そして、右側の白雉元年(650年)の記事は、「孝徳天皇が豊国(倭国東朝)の中で難波長柄豊碕宮を造営し都を定めた」と書かれている。
筑紫側(倭国本朝)の京師は、大宰府に存在するから、これが通説で云われる「複都制」であり、また、九州王朝論で云う「両京制」である。
次の白雉4年(653年)に中大兄皇子とある記事は、倭国東朝の天智天皇として即位されていた記事と考えている。その天智天皇が、大半の臣下とともに倭京(倭飛鳥河辺行宮)に遷った。その宮跡が、香春町古宮ヶ鼻の阿曽隈社にあった。
したがって、上記に示した『日本書紀』孝徳紀の記事は、倭国本朝と倭国東朝の二つの王朝の記事になると分析した。
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「複都制・両京制」について
通説の「複都制」
「複都制」再考:栄原 永遠男(大阪歴史博物館名誉会長)
[要旨]
日本古代に「複都制」という「都」もしくは「京」を複数置くという制度があったとすることは、1967年に提起されて以来、ほとんど疑われることなく、自明の前提とされてきたが、その理解をめぐって議論は混乱してきた。
「宮」は複数併存するもので、「京」は「宮」に外延部がついたものであるから、これも併存する。
しかし「京」が併存すると、天皇の所在地を明示するために、天皇の居る「京」を「都」と称し、強調して「皇都」とも呼んだ。
この観点で「京」「都」の変遷を検討すると、天武天皇の晩年を除いて「都」が併存することはないし、それを示す史料も存在しないことが明らかとなる。
「複都制」は、天武朝に一時期実現が目指されただけで、それも観念的なものにとどまり、その後引き継がれることはなかった。
古田史学の会の「両京制」
古代日本では京と都では概念が異なり、京(都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ない。
しかし、唯一の例外が前期難波宮で、その資料根拠が天武12年(683年)の複都詔である。
「又詔して曰はく、『凡そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造るらむ。故、先づ難波を都にせむと欲う。是を以て、百寮の者、各往りて家地を請はれ』とのたまう。」
この複都詔は年次が34年ずれている。天武12年(683年)には既に難波京(前期難波宮)があり、「先づ難波を都にせむ」というのはおかしい。
正木裕氏による34年遡り説によれば、649年の複都詔となり、難波京(前期難波宮)造営の詔勅となる。前期難波宮は九州年号の白雉元年(652年)に完成している。
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「西暦649年の複都詔」であれば、孝徳天皇の時代の詔となる。
正木裕氏の説とすれば、
・ 649年の複都詔
「凡そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造るらむ。故、先づ難波を都にせむと欲う。」
・ 孝徳紀の白雉元年(650年)
「難波長柄豊碕宮(行橋市長井浜附近か)を造営し、そこを都と定めた。」
となり、この都が「前期難波宮」であり、九州年号の白雉元年(652年)に完成している。
『日本書紀』孝徳紀には、倭国本朝と倭国東朝の記事が一緒に書かれていて、あたかも一人の天皇の事績(一つの王朝しかない)とされている。
だから、通説でも九州王朝論でも一つの王朝に二つの都があると考えている。
下記の詳細図は、考古学の成果であり大阪城の南側に発掘された難波宮跡である。しかし、福永説では、この宮跡も延暦3年(西暦784年)桓武天皇の長岡京遷都以降に遷された宮跡である。
したがって、西暦645年の乙巳の変の直後の650年頃には、ここ大阪城の南側のこの場所に難波宮は無かったと考えている。
下記が、福永説で考えている「京・宮」地である。延暦3年(西暦784年)の長岡京に遷都する前、奈良時代の平城京は、嘉穂郡桂川町土師三区にあったとしている。
その奈良時代以前の日本王朝の「京・宮」は全て豊国内にあったとするのが、福永説である。
福永説の飛鳥時代の倭国には、福岡県内に二つの王朝(倭国本朝と倭国東朝)が並立し続いていたと考えている。
その筑紫国(倭国本朝)と豊国(倭国東朝)の出来事については、「孝徳・斉明・天智紀の倭国本朝と倭国東朝」に詳細があります。
さらに和同開珎(新和同A)が作られたのは和銅元年(708年)よりも50年以上も古いも大化2年(646年)と考えられ、これも天智天皇の業績だと考えている。
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『日本書紀』斉明紀にある有間皇子
ウィキペディアに書かれている有間皇子の謀反については、以下の『日本書紀』斉明紀の一節が元となっている。
さらに有間皇子についての系図も載せている。
この『斉明紀』の第37代の斉明天皇は、西暦645年の乙巳の変の後に即位した孝徳天皇が崩御した事によって皇極天皇が重祚した天皇である。
その皇極天皇の弟とされている孝徳天皇と小足媛の間に生まれたのが、有間皇子である。そして、皇極天皇と舒明天皇の間に産まれたのが、中大兄皇子(のちの天智天皇)である。
また、日本書紀では、大海人皇子(のちの天武天皇)は、天智天皇の弟とされている。
孝徳天皇の皇后だった天智天皇の妹の間人皇女は、『孝徳紀』白雉4年(653年)の記事に「皇太子、乃奉二皇祖母尊間人皇后一、幷率二皇弟等一、往居二于倭飛鳥河邊行宮一。」とあるように皇太子(中大兄皇子)に随って、阿曽隈社(香春町古宮ヶ鼻)へ遷っている。その後、孝徳天皇は白雉5年(654年)に病気になり崩御する。
中大兄皇子は、乙巳の変で強大な権力を持っていた蘇我入鹿を倒したから、本当は、この直後に天智天皇として即位した。そして、和同開珎の所で説明したように大化2年(西暦646年)の和同開珎発行の詔を出したもの天智天皇だと考えている。
そのように考えた時に福永説は、次のように考えている。乙巳の変は、倭国本朝(筑紫国側)の家臣であった蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子の倭国本朝に対する謀反であった。そこで、倭国本朝から倭国東朝(豊国側)を抑えるために派遣されてきたのが、孝徳天皇ではないか。その孝徳天皇は、天武天皇の叔父にあたる人物ではなかったかと考えている。
孝徳天皇は、豊国の中に難波長柄豊碕宮を造営して都とした。その地が、行橋市長井浜附近ではなかったか? そこから天智天皇(中大兄皇子が即位していたかもしれない)を牽制していた筑紫君の一族ではなかったと考えている。
その孝徳天皇の子である有間皇子も倭国本朝(筑紫国)の血筋を引く皇子である。だから、乙巳の変で蘇我入鹿を倒した天智天皇にとって、有間皇子は邪魔な存在でしかなかった。
倭国東朝(豊国)の復権を図ってきた天智天皇は、再び有間皇子の手によって倭国本朝の影響力増すことを恐れた。そこで、有間皇子を謀反の罪に陥れたというのが史実だと考えている。その内容が、『日本書紀』の斉明天皇四年十一月の記事である。
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『斉明紀』の記事の天皇は、通説では斉明天皇になるが、福永説では、天智天皇だと捉えている。
この『斉明紀』にある「三つの失の政事」の一つが、狂心の渠である。11月3日に蘇我赤兄臣は、その天智天皇の失政の事を云って、有間皇子に近づく。それで、有間皇子は、謀反の心を抱いた。
11月5日に有間皇子は、赤兄の家に行ったが、不吉なことがあり、有間皇子は一旦、帰ったその夜中に赤兄に命じられた物部朴井連鮪らに家を囲まれた。
天智天皇の密命を受けた赤兄が、有間皇子を罠に掛けて、謀反を起こさせた。
11月9日に有間皇子は、捕らえられる。そして、斉明天皇が行幸している紀温湯に流される。この地は『斉明紀』に「四年冬十月庚戌朔甲子、幸二紀温湯一。」と同じ場所である。さらに『万葉集』巻第一の8番歌の左注から斉明天皇が出かけた温泉地だという事もわかる。
したがって、有間皇子が、謀反を起こした時に対処した天皇(『斉明紀』には「天皇」しか書かれていないが)は、天智天皇しかいないと思われる。
天智天皇から「何故、謀反をおこしたのか」と聞かれた有間皇子は、「天と赤兄と知らむ。吾全ら解らず」と答えている。11月11日に有間皇子は、藤白坂で絞首刑に処せられた。
これが、福岡県内にあった二つの王朝、倭国本朝(筑紫国)の血筋を引く皇子が、倭国東朝(豊国)の天智天皇によって謀反の罪に追い込まれたという王権争いの歴史解釈が福永説である。
この福永説の歴史的背景を前提とすれば、『万葉集』巻第二の141番〜146番歌がよく理解できる。『万葉集』の部立ての中の巻第二の挽歌の冒頭にある歌である。
題詞に「後岡本宮御宇天皇代」とあり、斉明天皇の御世の歌である。
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141番歌は、有間皇子が謀反を起こして捉えられ、斉明天皇ではなく天智天皇の前に連れて行かれる時の歌と思われる。上図が、有間皇子が天智天皇の所に連れて行かれる時の哀しい絵である。
142番歌は、罪人である有間皇子は、食器も無く、おそらく干飯を椎の葉に盛って食べると詠まれている。
143番から146番は、後の時代に有間皇子の悲哀を詠った歌である。
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長忌寸意吉麻呂は、伝未詳の人物であり、『日本書紀』にも『続日本紀』にも出てこない人物である。
143番歌に詠われている「松が枝結びけむ人」は、当然、有間皇子である。したがって、後の時代に有間皇子を偲んで詠まれた歌である事に間違いはない。
有間皇子は、処刑されたことを知っているから「また見けむかも」の解釈は、反語も含めて「松の枝を見たであろうか。いや見なかったなぁ。」としても良いですかね。
この144番歌のように後の時代に詠まれた歌は、「岩代の野中に立っている結び松の枝」とあるように長忌寸意吉麻呂の時代には、まだ、実際に松の枝があったのでしょうか?
長忌寸意吉麻呂は、あくまでも有間皇子を悼んで詠まれている。この歌の詠み手側から見れば、天智天皇側が悪者となる。
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145番歌の冒頭の句「鳥翔成」は、難訓である。Wikipediaで有間皇子を紹介した挿絵の中では、「鳥翔なす」と読ませているが、ここでは「鳥翔成」と澤瀉久孝氏の読み方を採った。
この145番歌を詠んだ山上臣憶良は、天武天皇の後、天武朝に仕えた歌人であり、有間皇子に同情的である。
そして、この145番歌の菅原道真公が付けた左注に「挽歌」に準えると書かれている。だから、この歌は、挽歌の心持で詠まれているから挽歌の類いに載せると書いている。道真公が『万葉集』の挽歌の定義を加えている。だから、この注は、非常に重要な注である。
146番歌も謎の歌である。題詞に「大寶元年辛丑」とあり、西暦701年であるから、天武11年(西暦682年)に柿本人麻呂は亡くなったしている福永説では、全く謎となる。柿本人麻呂は、一人の人物ではなく、世襲名であり、柿本人麻呂は、2代目か3代目と続いたと考えている。
だから、この146番歌の柿本人麻呂は、2代目の柿本人麻呂だとすると大宝元年の時代と合ってくる。そして、題詞の中に「柿本朝臣人麻呂歌集の中」とあるので、人麻呂が編集した歌集であって、人麻呂自身が詠んだ歌だとは言えない。詠み人が誰かとはハッキリと書かれていない。
大寶元年(西暦701年)に紀伊國に行幸されたのは、文武天皇であり、この時に初代の柿本人麻呂は、生きていない。
この146番歌も大寶元年の歌であるから有間皇子が処刑されたことを知っているから、「またも見けむかも」というのは、またも反語になるでしょうか。「小松の木末を再びご覧になっただろうか。いやご覧にならなかったなぁ。」となるべきですかね。
有間皇子は、蘇我赤兄らによって謀反を起こすように企てられて、直ぐに裏切りに会い捉えられた。そして、数え年19歳で絞首刑により処刑された。
後の時代に有間皇子を慕う人たちが、この『万葉集』の歌だけでも長忌寸意吉麻呂とか、山上臣憶良ら3人もいる。141番・142番の有間皇子の歌に添えられて、143番から146番の歌まで続いている。