「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬臺(やまと)國 = ( やまと)国 年表(豊国史:継体天皇~天武天皇)

■ 継体天皇

507年

二月、樟葉(くすば)(のみや) (行橋市  草場神社 )で即位。

511年

十月、筒城宮(つつきのみや)に遷す。

518年

三月、弟国宮(おとくにのみや)に遷す。

522年

(継体天皇一六年) 「善記」という年号を始める。鎌倉時代に書かれた「二中歴」で
          あるが、継体天皇が始めた年号として  豊国年号 と付け直した。

526年

(継体天皇二十年) 九月、磐余(いわれ)玉穂(たまほ)(のみや) (福智町金田の  稲荷神社 )に遷す。

※ 詳細は、「聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成二九年六月三日(土))」の講演時の
 資料(パワーポイント) 継体天皇 のページを参照下さい。

527年

磐井の乱 (「 東西五月行の成立 」の22ページより)
 倭五王 」の次の「」が、筑紫君磐井に当たるようである。豊国の継体天皇と争って敗れ、
王権は豊国に戻る。

 

■ 欽明天皇(五三九~五七一)

552年

(欽明天皇一三年) 百済の聖明王が仏像と経文を献上した。
          (蘇我氏と物部氏の対立がおこる)

558年

(欽明天皇一九年) 豊国年号「兄弟元年
           隋書 俀國傳 』に書かれている豊国(兄国)と筑紫国(弟国)の
            兄弟王朝(兄弟統治) の始まり。

570年

(欽明天皇三一年) 蘇我稲目薨去。墓は、みやこ町にある  甲塚方墳 か?

※ 詳細は、「聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成二九年六月三日(土))」の講演時の
 資料(パワーポイント) 欽明天皇 のページを参照下さい。

 

■ 崇峻天皇(五八七~五九二)

591年

(崇峻天皇四年) 阿毎多利思比孤、年号「法興」を発布。(法興元年)
         冬十一月、二萬餘の軍が筑紫に派遣される。

592年

(崇峻天皇五年) 豊国の崇峻天皇が、逆臣蘇我馬子に暗殺される
         (筑紫国が倭国本朝(兄国)、豊国が倭国東朝(弟国)となった)

※ 詳細は、「聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成二九年六月三日(土))」の講演時の
 資料(パワーポイント) 聖徳太子の正体 のページを参照下さい。

 

■ 推古天皇(五九三~六二八)

596年

(推古天皇三年) 七月、崇峻天皇四年に筑紫に派遣された軍隊が豊国に帰ってくる。

600年

開皇二十年) 阿毎多利思比孤、遣使を王宮に詣でさせる。

607年

(大業三年) 阿毎多利思比孤、遣使を以て朝貢。「日出處天子

608年

(推古天皇一六年) 秋八月に、隋の裴世清を京の海石榴市の衢(ちまた)に迎えている。

621年

(推古天皇廿九年) 厩戸豐聰耳皇子薨去。
          法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘にある「法興元三十一年歳次辛巳

622年

(推古天皇卅年) 上宮法皇登遐(崩御)。法興は、丗二年で終わる。
         上宮法皇は、筑紫君の阿毎多利思比孤の晩年の称号と思われる。

626年

(推古天皇卅四年) 蘇我馬子薨去。墓は、みやこ町豊津の  彦徳甲塚古墳 か?

628年

(推古天皇卅六年) 推古天皇崩御。後に科長大陵(みやこ町勝山黒田の  綾塚古墳 )に
          遷される。

※ 詳細は、「聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成二九年六月三日(土))」の講演時の
 資料(パワーポイント) 推古天皇 のページを参照下さい。

 

■ 舒明天皇(六二九~六四一)

629年

(舒明天皇元年) 一月四日、即位。

630年

(舒明天皇二年) 十月十二日、飛鳥岡本宮(赤村岡本  光明八幡社 )に遷る。

636年

(舒明天皇八年) 六月、岡本宮が火災に遭う。田中宮(田川市伊加利
(舒明天皇八年)    岩亀八幡神社 )に遷る。この年、旱魃・飢饉が起こる。

638年

(舒明天皇十年) この年、福亮僧正が法起寺金堂  上坂廃寺 )を建立する。
(舒明天皇十年) (『法起寺塔露盤銘』)

639年

(舒明天皇十一年) 七月、詔して、百済川の辺に大宮と大寺(田原遺跡附近)を
(舒明天皇十一年) 造らせる。

(舒明天皇十一年) 十二月、伊予温泉(宮若市  千石峡 )に行幸。百済大寺(田原
(舒明天皇十一年) 遺跡附近)の九重塔が建つ。

640年

(舒明天皇十二年) 四月、伊予から帰り、厩坂宮(香春附近か)に滞在する。

(舒明天皇十二年) 十月、百済宮(田原遺跡附近)に遷る。

641年

(舒明天皇十三年) 十月九日、百済宮に崩御。

※ 詳細は、「白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日(日))」の講演時の資料(パワーポイント)
  舒明・皇極天皇 のページを参照下さい。

 

■ 皇極天皇(六四二~六四五)

642年

(皇極天皇元年) 一月十五日、即位。

643年

(皇極天皇二年) 四月二十八日、更に飛鳥板蓋宮  福原長者原遺跡 か)に遷る。

(皇極天皇二年) 十一月一日、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、同月十一日に王は自害。

644年

(皇極天皇三年) 十一月、蝦夷・入鹿、家を甘樫丘(みやこ町と行橋市の境の  馬ヶ岳 
(皇極天皇三年) 中世の城跡)にべ建つ。

645年

(皇極天皇四年) 六月十二日、中大兄皇子らが飛鳥板蓋宮大極殿内で蘇我入鹿を討ち、
(皇極天皇三年) 翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する。乙巳の変

(皇極天皇四年) 六月十四日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を
(皇極天皇三年) 譲る。

※ 詳細は、「白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日(日))」の講演時の資料(パワーポイント)
  舒明・皇極天皇 のページを参照下さい。

 

■ 孝徳天皇

653年

(白雉四年) 中大兄は、天皇に難波長柄豊碕宮から倭京に遷ることを求めた。

654年

(白雉五年) 孝徳天皇崩御。中大兄は、倭河邊行宮(香春町の  阿曽隅社 )に遷る。

※ 詳細は、「白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日(日))」の講演時の資料(パワーポイント)
  豊君としての天智天皇 のページを参照下さい。

 

■ 天智天皇

656年

(斉明(天智)天皇二年) 狂心の渠(香春町の  謎の地下水路 )。垣造る(香春町の
               呉中平雪穴 )。吉野宮(中津市山国町の  若宮神社 )を作る。

             和同開珎は、香春三ノ岳の銅で作らている。

※ 詳細は、「白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日(日))」の講演時の資料(パワーポイント)
  豊君としての天智天皇 のページを参照下さい。

657年

(← 天智天皇三年:664年) 是歳、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築
         大堤貯水、名曰水城
(倭国本朝) 水城は、白村江戦の前に造られた。

660年

(顯慶五年) 酋長五十八人送京師。(新唐書・百済)
       百済の役で唐軍の捕虜となっていた筑紫君薩野馬は、その一人だと思われる。

661年

(← 天智天皇七年:668年) 春正月丙戌朔戊子(三日)に、皇太子即天皇位す。

(← 天智天皇六年:667年) 春三月辛酉朔己卯(十九日)、都を近江大津宮(糸田町
           大宮神社 )に遷す。

『海東諸国紀』斉明七年辛酉、 白鳳と改元し、都を近江州に遷す。

(天智天皇七年) 秋八月、右大臣金連公によって須弥山漏刻(糸田町  泌泉 )が造営された。

663年

(天智天皇二年) 秋八月壬午朔戊申(二十七日)倭国本朝、白村江に敗戦。筑紫君薩野馬、
         唐の捕虜のまま敗戦を知る。

664年

(← 天智天皇四:665年) 秋九月庚午朔壬辰、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を
         遣す。

         海外国記曰、天智天皇三年(664年)四月、大唐客来朝。

(天智天皇十年) 十一月の記事に天智天皇四年記事と同じ人物が、出てくる。白村江戦の翌年
         (664年)に筑紫君薩野馬は、帰朝している。

(← 天智天皇四:665年) 冬十月己亥朔己酉(十一日)、大きに菟道(香春町  阿曽隈社 )に
         閲す。

         赤村にある琴弾瀧の伝承は、唐の兵士を菟道宮で閲兵した後の出来事と思える。

665年

(← 天智天皇三年:664年) 春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟(大海人皇子=筑紫君薩野馬)、
         宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。

※ 詳細は、「記紀はなぜ鷹羽の神々を隠したか ‐壬申之大乱との関わり‐(令和元年12月8日(日))」の
 講演時の資料(パワーポイント) 白村江戦前夜~白村江戦後 のページを参照下さい。

670年

(天智天皇九年) 春二月に、戸籍を造る。(※ 庚午年籍。唐の冊封下に入る。)

(天智天皇九年) 倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。
         (三国史記 新羅本紀文武王十年十二月)

671年

(天智天皇十年) 九月に、天皇寝疾不予したまふ。

 

■ 天武天皇

672年

(天武天皇元年) 六月~八月 壬申の乱
        「豊君の天智天皇」と「大海人皇子= 筑紫君薩野馬」との直接の争いに敗れ、
         宗像市の  織幡神社 突端の岬からの入水自殺した。天智天皇は病死ではない。

672年

(天武天皇元年) 是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を
         飛鳥浄御原宮と謂ふ。(赤村  大原の貴船神社 の地に比定)

686年

(天武天皇十五年) 六月の戊寅(十日)に、天皇の病を卜ふに、草薙劒に祟れり。即日に、
          尾張国の熱田社(鞍手町)に送り置く。

686年

(朱鳥元年) 九月丙午(九日)に、天皇の病、遂に差えずして、正宮に崩りましぬ。

※ 詳細は、「白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日(日))」の講演時の資料(パワーポイント)
  壬申の乱 のページを参照下さい。

 

七世紀末以降~八世紀半ばにかけて、豊国から近畿の地へ  日本王朝は東遷 する。