「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 和同開珎の謎(その歴史と関わった人物)

 香春岳の銅と皇朝十二銭 & 柿本人麻呂は採銅所に眠る(令和4年1月8日) より

(3)柿本人麻呂は採銅使だった!

 ●   

  暦と干支 

 『持統天皇紀』4年記事に「勅を奉りて始めて元嘉曆儀鳳曆とを行う」とある。

 元嘉曆・儀鳳曆
(持統四年)十一月甲戌朔庚辰、賞賜送使金高訓等、各有差。甲申、奉勅始行元嘉曆儀鳳曆
 元嘉暦は中国暦の一つで、かつて中国や百済、日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法。中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法である。
 中国では南朝の宋・斉・梁の諸王朝で、元嘉二二年((445年))から天監八年((509年))までの六十五年間用いられた。

 倭の五王から筑紫側
 儀鳳暦は中国暦の一つで、中国・唐の天文学者・李淳風が編纂した太陰太陽暦の暦法である。唐でのもともとの名称は麟徳暦であるが、日本においては儀鳳暦と呼ばれた。
 唐の麟徳暦は、麟徳二年((665年))から開元十六年((728年))までの七十三年間用いられた。

 天智天皇から豊国側

<干  支>

*1

(参考)西暦の末尾年

  1   甲子(きのえね)

  2   乙丑(きのとうし)

  3   丙寅(ひのえとら)

  4   丁卯(ひのとう)

  5   戊辰(つちのえたつ)

  6   己巳(つちのとみ)

  7   庚午(かのえうま)

  8   辛未(かのとひつじ)

  9   壬申(みずのえさる)

  10   癸酉(みずのととり)

  11   甲戌(きのえいぬ)

  12   乙亥(きのとい)

  13   丙子(ひのえね)

  14   丁丑(ひのとうし)

  15   戊寅(つちのえとら)

  16   己卯(つちのとう)

  17   庚辰(かのえたつ)

  18   辛巳(かのとみ)

  19   壬午(みずのえうま)

  20  癸未(みずのとひつじ)

  21   甲申(きのえさる)

  22   乙酉(きのととり)

  23   丙戌(ひのえいぬ)

  24   丁亥(ひのとい)

  25   戊子(つちのえね)

  26   己丑(つちのとうし)

  27   庚寅(かのえとら)

  28   辛卯(かのとう)

  29   壬辰(みずのえたつ)

  30   癸巳(みずのとみ)

  31   甲午(きのえうま)

  32   乙未(きのとひつじ)

  33   丙申(ひのえさる)

  34   丁酉(ひのととり)

  35   戊戌(つちのえいぬ)

  36   己亥(つちのとい)

  37   庚子(かのえね)

  38   辛丑(かのとうし)

  39   壬寅(みずのえとら)

  40   癸卯(みずのとう)

  41   甲辰(きのえたつ)

  42   乙巳(きのとみ)

  43   丙午(ひのえうま)

  44   丁未(ひのとひつじ)

  45   戊申(つちのえさる)

  46   己酉(つちのととり)

  47   庚戌(かのえいぬ)

  48   辛亥(かのとい)

  49   壬子(みずのえね)

  50   癸丑(みずのとうし)

  51   甲寅(きのえとら)

  52   乙卯(きのとう)

  53   丙辰(ひのえたつ)

  54   丁巳(ひのとみ)

  55   戊午(つちのえうま)

  56  己未(つちのとひつじ)

  57   庚申(かのえさる)

  58   辛酉(かのととり)

  59   壬戌(みずのえいぬ)

  60   癸亥(みずのとい)

(きのえ):xxx4年

(きのと):xxx5年

(ひのえ):xxx6年

(ひのと):xxx7年

(つちのえ):xxx8年

(つちのと):xxx9年

(かのえ):xxx0年

(かのと):xxx1年

(みずのえ):xxx2年

(みずのと):xxx3年

 干支は、60通りあり、60年で一巡する。これが還暦。そして、十干は、西暦年の末尾が全て同じ年になる。例えば、「(きのえ)」は、xxx4年である。 大正13年(1924年)に会場したのが、有名な甲子園球場である。

 この干支が『日本書紀』神武天皇紀以降の記事には書かれている。そして、60年毎に繰り返す干支は、日本書紀の中で、記事を前に移したり後ろに移したりして書くことが出来ている。
 ここで取り上げる和同開珎の記事においては、日本書紀に書かれているハズの記事が、続日本紀に移されて書かれている。元のある年の記事をそのまま年は違うが、同じ朔干支の月に移してそのまま書かれているだけである。暦を大事にして行けば、改ざんされているとされる日本書紀も原形に近いと思われるものが見えてくる。
 また、この干支は、日にちにも使われている。だから、大凡2ヵ月で一巡するが、昔の暦は制度が良くなかったので、4年に一度閏年があるように閏月をよく設ける。例えば、下記に示す日本書紀暦日原典の大化2年にあるように「4月」と「閏4月」とがある年がある。
 だから、月の最初(朔)の干支が意外とバラバラであるから、朔干支が同じ年は、あまり多くない。暦を綿密に見ていくと日本書紀の記事が移した記事かなということが、時々見えてくる。

*1

干支(えと)は、下記に示す十干(じっかん)十二支(じゅうにし)の組み合わせ

十干

 甲 

 乙 

 丙 

 丁 

 戊 

 己 

 庚 

 辛 

 壬 

 癸 

五行

 木 

 火 

 土 

 金 

 水 

五行陰陽

 木の兄

 木の弟

 火の兄

 火の弟

 土の兄

 土の弟

 金の兄

 金の弟

 水の兄

 水の弟

訓読み

きのえ

きのと

ひのえ

ひのと

つちのえ

つちのと

かのえ

かのと

みずのえ

みずのと

十二支

 子 

 丑 

 寅 

 卯 

 辰 

 巳 

訓読み

うし

とら

たつ

十二支

 午 

 未 

 申 

 酉 

 戌 

 亥 

訓読み

うま

ひつじ

さる

とり

いぬ

 ●   

  現行史料の年次見直し 

 前述の「(1)和同開珎の読み方・意味とその歴史」で説明した見直し年次は、現行史料の各年次の記事を『日本書紀暦日原典』を用いて見直した年次である。
 例えば、「和銅元年(708年)」の5月(壬辰(みずのえたつ))、7月(辛卯(かのとう))、8月(庚申(かのえさる))の朔干支が、「大化2年(646年)」の5月、7月、8月の朔干支とピッタリ合致した結果である。

 その同じ「和銅元年(708年)」に「従四位下柿本朝臣佐留卒」があるが、この記事も移された記事ではないかと考えて、亡くなった日付を追いかけると4月(癸亥(みずのとい))の朔干支と同じ年が、下記に示す日本書紀暦日原典の天武天皇十二年(682年)にあった。この年に柿本朝臣佐留は亡くなっているという事が見えてきた。

 この従四位下柿本朝臣佐留が、猿丸大夫であり、『万葉集』の歌人柿本人麻呂であるとき、人麻呂は、天武十一年(682年)に亡くなった事になる。
 人麻呂は通説で云われている天武・持統朝の歌人では無かった。人麻呂は天智朝の歌人であり、天武朝の時に亡くなった。だから、人麻呂は、白村江の戦いや壬申の乱を知っている。そして、和同開珎と深く関わっていた事がわかっていく。

続日本紀和銅元年((708年))の記事
四月癸亥(みずのとい)

 夏四月己巳((七日))、授無位村王従五位下。

 癸酉((十一日))、制。貢人・位子。無考之日。浪入常選。(略)

 壬午((廿日))、従四位下柿本朝臣佐留

*2

五月壬辰(みずのえたつ)

 五月壬寅((十一日))行銀銭
日本書紀』天武天皇十一年((682年))の記事
夏四月癸亥辛未((九日))、祭廣瀬龍田神。
 壬午((二十日))、従四位下柿本朝臣佐留

 癸未((二十一日))、筑紫大宰丹比眞人嶋等、貢大鐘。

 甲申((二十二日))、越蝦夷伊高岐那等、請俘人七十戸爲一郡、乃聽之。

 乙酉((二十三日))、詔曰「自今以後、男女悉結髮。(略)

_____________
   柿本朝臣佐留が亡くなった
   年を見直した結果

*2

卒する:令制で、四位・五位の官人が死去すること

<日本書紀暦日原典> ・・・ 天武天皇11年(682年)

 
  天皇、紀年、干支、月

  天武 11年 壬午 1月
  天武 11年 壬午 2月
  天武 11年 壬午 3月
  天武 11年 壬午 4月
  天武 11年 壬午 5月
  天武 11年 壬午 6月
  天武 11年 壬午 7月
  天武 11年 壬午 8月
  天武 11年 壬午 9月
  天武 11年 壬午 10月
  天武 11年 壬午 11月
  天武 11年 壬午 12月

      儀   鳳   曆

 朔 干 支  

  31.(乙未)302
  01.(甲子)833
  30.(甲午)363
  59.(癸亥)894
  29.(癸巳)425
  58.(壬戌)955
  28.(壬辰)486
  58.(壬戌)016
  27.(辛卯)547
  57.(辛酉)078
  26.(庚寅)608
  56.(庚申)139

グレゴリオ暦  

  682 02 16
  682 03 17
  682 04 16
  682 05 15
  682 06 14
  682 07 13
  682 08 12
  682 09 11
  682 10 10
  682 11 09
  682 12 08
  683 01 07

中 気

  35.459
  05.896
  36.333
  06.770
  37.207
  07.644
  38.081
  08.518
  38.955
  09.393
  39.830
  10.267

日本
書紀

乙未
甲子
甲午
癸亥
癸巳
壬戌
壬辰
壬戌
辛卯
辛酉
庚寅
庚申

西暦

 682 

 690 

銭種

新和同A

 〃

鋳銭関係

始めて催鋳銭司を置く

白ナマリの所有禁止

理化学的研究まとめ+α

アンチモン(Sb)を少量含むものは錫(Sn)が多い。
鉛同位体比は古和同と近似。

 上記は、桜井貴子氏の年表では、682年記事の時の銭種は、「新和同A」とされているが、前述の「(1)和同開珎の読み方・意味とその歴史」で説明したように福永説では、682年に「新和同C」が作られた年としている。
 この「始めて催鋳銭司を置く」とあるようにここで「新和同B」から「新和同C」の変わるこの年に柿本朝臣佐留(=柿本人麻呂)が亡くなっている。

 『続日本紀』和銅元年(708年)四月癸亥朔にある「壬午(二十日)、従四位下柿本朝臣佐留卒。」の記事は、そのまますっぽりと天武紀十一年(682年)夏四月癸亥朔にある他の記事と重複することなく入る。

<日本書紀暦日原典> ・・・ 大化2年(646年)

 
  天皇、紀年、干支、月

  大化 2年 丙午 1月
  大化 2年 丙午 2月
  大化 2年 丙午 3月
       元嘉を┌ 4月
       見よ └閏4月
  大化 2年 丙午 5月
  大化 2年 丙午 6月
  大化 2年 丙午 7月
  大化 2年 丙午 8月
  大化 2年 丙午 9月
  大化 2年 丙午 10月
  大化 2年 丙午 11月
  大化 2年 丙午 12月

      儀   鳳   曆

 朔 干 支  

  00.(甲子)656
  30.(甲午)187
  59.(癸亥)717
  29.(癸巳)248
  58.(壬戌)778
  28.(壬辰)309
  57.(辛酉)840
  27.(辛卯)370
  56.(庚申)901
  26.(庚寅)431
  55.(己未)962
  25.(己丑)493
  55.(己未)023

グレゴリオ暦  

  646 01 25
  646 02 24
  646 03 25
  646 04 24
  646 05 23
  646 06 22
  646 07 21
  646 08 20
  646 09 18
  646 10 18
  646 11 16
  646 12 16
  647 01 15

中 気

  26.647
  57.084
  27.521
  57.958
  
  28.395
  58.832
  29.269
  59.706
  30.144
  00.581
  31.018
  01.455

日本
書紀

甲子
甲午
癸亥





庚申



 ▼   

  柿本姓に拘った結果の文献 
「猿丸大夫は採銅所にいた! (令和二年霜月七日 香春町郷土史会)より」

 柿本臣柿本臣猨の記述が、古事記・日本書紀に出てくる。また、天武紀十三年記事には朝臣を賜ったとある。
  ・『古事記』孝昭天皇記
  ・『日本書紀』天武天皇十年(681年)、十三年(684年)
 これらの内容は、こちらのページを参照下さい。

 ▼   

  豊国を詠んだ柿本人麻呂歌 
「猿丸大夫は採銅所にいた! (令和二年霜月七日 香春町郷土史会)より」

 万葉集の歌人である柿本人麻呂(おそらく柿本佐留と同一人物であろう)が詠まれて歌をずーっと追いかけていくと豊国(倭国)の古代史をかなり知っていて、それが倭歌に反映されている。
  ・『万葉集』巻第三  304番
  ・   〃  巻第十三  3253番、3254番
  ・   〃  巻第一  29番、30番、31番
 これらの内容は、こちらのページを参照下さい。

 ▼   

  天智天皇を詠んだ人麻呂歌 (新説)
「豊国の万葉集⑰ (令和6年2月28日 於:小倉城庭園研修室)より」

 壬申の乱は、天智天皇と天武(大海人皇子)の直接の戦いであり、敗れた天智天皇は、宗像市の織幡神社の埼から入水自殺されたとしたが、その後が不明だった。
 その天智天皇の遺骸が見つかり、人麻呂はその島へ駆けつけ『万葉集』巻第二  220番歌の中で「ころ()す君」と詠み天智天皇の挽歌を残していた。

 そして、天智天皇の遺骸が埋葬された陵の伝承が『嘉穂郡誌』に残されていた。千手寺である。その伝承に行き当った時に『万葉集』巻第三  241番歌の人麻呂が天智天皇を偲んでその場所で詠まれた歌との解釈が成り立った。

 ▼   

  高津柿本神社の伝承と万葉集(岩見國の妻) 
「猿丸大夫は採銅所にいた! (令和二年霜月七日 香春町郷土史会)より」

 壬申の乱が終わり、天武朝に変わったが、従四位下の冠位が与えられ柿本佐留(=人麻呂)は、天武天皇に仕えた。
 人麻呂は、その後も銀銭の鋳銭に関わっていたのか石見国へ銀の調達の為か赴任した伝承が高津柿本神社に残されている。そして、この神社の伝承では人麻呂は、神亀元年(724年)に亡くなったとある。

 また、『万葉集』巻第二 131番・132番・133番に石見國の妻と別れる時に詠まれた歌が残されて、人麻呂は、間違いなく岩見國へ赴いている。

 人麻呂の没年については、上記の現行史料の見直しで説明したように『続日本紀』元明天皇・和銅元年(708年)4月の「壬午、従四位下柿本朝臣佐留卒。」の記事は、『日本書紀』天武天皇十一年(682年)四月から移されたと見出している。人麻呂の没年は、天武朝の時代の682年である。

 ▼   

  歌の聖  柿本人麻呂は、正三位だった 
「猿丸大夫は採銅所にいた! (令和二年霜月七日 香春町郷土史会)より」

 人麻呂の没年とは別にして、高津柿本神社の伝承にある「国司として石見国に赴任」については、天智朝の時は正三位として仕えていた人麻呂だったが、天武朝になり従四位下に降格され国司として左遷されたのかも知れない。
 人麻呂が間違いなく正三位だったことは、紀貫之の作とされている『古今和歌集』仮名序の中に残されている。そして、人麻呂が『万葉集』の成立にも大きく関わっていた事もわかる。
 また、『古今和歌集』真名序からは柿本大夫が、古猿丸大夫と書かれているから、「柿本朝臣佐留柿本人麻呂猿丸大夫」だということになる。

 ▼   

  猿丸大夫の墓が香春町採銅所にある 

 柿本人麻呂が、猿丸大夫と同一人物であるならば、香春町採銅所の小字「黒中」にある猿丸大夫の墓が、柿本人麻呂の墓ということになる。

 尚、こちらに「採銅所の猿丸大夫」に関する平成8年6月28日の讀賣新聞の記事があります。

 ▼   

 『小倉百人一首』の猿丸大夫と柿本人麻呂は同一人物!?
「猿丸大夫は採銅所に眠る (令和三年霜月六日 田川広域観光協会 第21回古代史講座)より」

 『百人一首』の猿丸大夫の作とされる「おくやまに もみぢふみわけ」と『万葉集』の人麻呂の本妻が亡くなった時の歌(207番、208番、209番)が、「黄葉」の意味が挽歌で使われることから同じ趣の訳が出来る。したがって、人麻呂と猿丸大夫は同一人物と考えられる。

 『万葉集』207番の人麻呂の歌に「畝傍の山(香春一ノ岳)」が詠まれていて、猿丸大夫(=柿本人麻呂)の墓が採銅所にあるからには、『百人一首』の猿丸大夫作にある「奥山」という所が採銅所にないかと香春郷土史会の人達に尋ねたら上採銅所に奥嶽という小字があると教えて頂いた。
 その奥嶽のある家の裏山の奥に(首塚といわれている墓)があり、これが『百人一首』の猿丸大夫の歌の「奥山」にある塚だとすれば、猿丸大夫と人麻呂が同一人物と考えられるので、この塚が人麻呂の本妻の墓跡という事になる。

 ●   

 (結論)柿本人麻呂は採銅使だった! 

 香春町採銅所の松井家には、「猿丸大夫は採銅使だった」という伝承が残されており、また、『続日本紀』に「山城國相楽郡旧鋳銭司の地を採銅の地と為す。」、「正式の採銅使を置く。」の記事がある。
 香春町採銅所に墓がある採銅使の猿丸大夫が、『続日本紀』に出てくる従四位下柿本朝臣佐留と『万葉集』の歌人である柿本朝臣人麻呂と同一人物だったとすれば、「柿本人麻呂は採銅使だった」という事になる。

 人麻呂は採銅使だった
 歌の聖、柿本人麻呂天智天皇に仕え、正三位採銅使だった。
 古和同銅銭銀銭を鋳銭するため、採銅所の清祀殿辺りにあったと思われる鋳銭司に勤めた。住まいは香春町柿下辺りであろう。
 銀銭の造幣に必要な銀を調達しに、石見銀山と往来した。石見にも妻がいた。採銅所の鋳銭司に勤めていた時、本妻の死が知らされ、奥山奥嶽)に葬った。
 主君天智天皇は、唐と結び、白村江の戦に加わらず、戦後倭国本朝を併合し、名実共に倭国の天皇となる。
 六七〇年、日本国と国号を改めた。人麻呂日本国を代表する宮廷歌人でもあった。
 六七二年、壬申の乱勃発。入水した天智天皇の水死体が上がった時の挽歌を人麻呂は苦心して残した。
 壬申の乱後、人麻呂佐留)と名を貶められ、従四位下に落とされる。失意のうちに石見から帰る途中、六八二年六月三日、鴨嶋で病没。
 書紀にとあり、万葉集に人麻呂とあるのは和同開珎と深く関わったからであろう。悲運の歌聖であった。

 人麻呂の住まいが、香春町柿下辺りについては、「柿下(かきした)」という地名の「」という字は、「もと」とも読むから「柿下(かきのもと)」とも読める。
 また、『続日本紀』の版本の中には、佐留と書かれたものもある。

 日本国という国号については、天智天皇9年(670年)に当る年に次の記事がある。『三国史記』新羅本紀  文武王十年十二月に
「倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。」とある。

 柿本人麻呂の命日は、上記の『日本書紀暦日原典』天武天皇11年の4月朔「癸亥」が682年5月15日に当り、20日後の「壬午」に「従四位下柿本朝臣佐留卒」とあるから、682年6月3日となる。
 また、5月朔「癸巳」が682年6月14日とあり、日付で逆算しても6月3日の干支は「壬午」と合っている。