「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
神武天皇の東征は、瀬戸内海を渡っていない。神武東征の本質は、金属資源の豊富に採れる権力の源泉の山=
天香山の地を制圧することにあった。
『日本書紀 神武紀』には、天香山の赤銅の八十梟帥とある。香春町の香春岳一ノ岳を天香山に比定している。
東征成就の後、畝傍山の東南の地に橿原宮で即位した。香春岳一ノ岳を畝尾山に否定している。
神武東征(第二次東征)で、菟狭へ回った後、何処へ向かったか?
『日本書紀 神武紀』のたった一文の「遂に狹野を越えて、熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登る」の
記述の地名については、
● 「狹野」は、求菩堤山であり、神武天皇の幼い頃の名が「狹野尊」と言い、求菩堤山は、最初は狹野獄と言い、
さらに人皇獄と言った。
菟狹から英彦山を越えて求菩堤山へ行く。ここには『求菩堤山縁起』がある。また、頭八咫烏も存在する。
● 「熊野の神邑」、「天磐盾」は、飯塚市の新飯塚駅の北側、熊野神社のある所が「熊野の崎」であり、さらに
北側の立岩神社が天磐盾である。神武天皇が滅ぼしたのが、立岩遺跡である。
その後が、『日本書紀』にはあるが、『射手引神社社伝』には、書かれていない長髄彦との最後の決戦「鳥見野
(頓野)の戦い」に勝利し、倭奴国を滅ぼした。
『鞍手郡誌 射手引神社社伝』によれば、神武は、東征成就を御母君玉依姫の霊位に報告する為、一旦、筑紫の
宝満山へ陸路で凱旋する。
※ 神武と卑弥呼と神功 邪馬臺国年表 (平成25年8月11日、久留米地名研究会)の講演より
■ 神武東征前史
後70年
磐余彦尊(神武天皇)誕生。生誕の地は、熊本県上益城郡山都町塩原の斗塩バス停のある所の部落。
後83年
神武天皇の父、鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野(お佐嘉の大室屋=吉野ケ里遺跡)を攻略。
神武東征の『古事記 神武紀』に書かれている筑紫に出発した「日向」は、何処か?
古田武彦氏の説、糸島の日向峠の辺りでは、筑紫から筑紫へ行くことになる。熊本県山鹿市の吾平山
相良寺の近くに日向があり、神武の父、彦波瀲武盧茲草葺不合尊の吾平山陵がある。
また、神武の最初の妃が吾田邑の吾平津媛である。
■ 神武第一次東征
114年
冬十月、磐余彦尊(神武天皇)、諸皇子と第一次東征開始。
十一月、岡水門に至り軍備を整える。
115年
春三月、古遠賀湾を逆上り、夏四月、長髄彦と交戦するが敗れる。兄の五瀬命が、矢にあたり負傷。
博多湾の草香津へ帰還。
五月、五瀬命、死去。竈山に葬る。
『鞍手郡誌 射手引神社社伝』、『日本書紀』に基づけば、第一次東征では、長髄彦に敗れたので、
一旦、博多に戻り再軍備をする。
『日本書紀』、『古事記』には、再軍備する場所の記述が無いが、『鞍手郡誌 射手引神社社伝』の
記述によれば、3年間、竈門山(宝満山)の高千穂の宮で再軍備をする。
■ 神武第二次東征
118年
春二月、第二次東征を開始する。
第一次東征で敗れた古遠賀湾に入らない、「日を背にして戦う神策」を実行に移す。
速吸之門(速吸日女神社)に至り、 珍彦(椎根津彦) を道案内とする。
菟狹に至り、一柱騰宮(妻垣神社)に 入る。
数ヶ月、 狹野嶽(求菩堤山)に通い、頭大天狗(豊前坊)及び八咫烏(求菩堤山八天狗)族と同盟を
結ぶ。この間、 吉野の国樔(玖珠)部らを巡撫。
六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
八月、菟田の穿邑に至る。菟田縣の血戦に勝つ。
九月、天香山(香春岳)攻略にかかる。
十月、赤銅の八十梟帥を国見丘に破る。
十一月、彦山川水系を南下し嘉麻川水系に入る。
「十有一月の癸亥の朔己巳に、皇師大きに拳りて、磯城彦を攻めむとす。」= 立岩丘陵 の激戦。
片島に上陸。熊野の神邑を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。天磐盾(立岩神社)に登り、天孫に祈願する。
十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む(戦いの場所は、 鳥見(頓野) :鳥美野の戦い)。
苦戦を強いられたが辛勝し、長髄彦を殺す。
「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髄彦を撃つ。」
119年
春二月、「諸將に命じて士卒を練ぶ。」倭奴国の残存勢力の掃討。
三月、香春岳 一ノ岳の東南、橿原の地に邸宅の建造を命じる。
一旦、陸路で筑紫の宝満山へ凱旋する(玉依姫命の霊位を祭る)。
※ 『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より、以下の神社に神武東征の伝承が伝わっています。
・ 蓑島神社 (旧京都郡蓑島村字村中)
■ 倭王朝(邪馬臺国)の成立
121年
辛酉年の春正月、神武天皇、橿原宮(香春町高野の 鶴岡八幡神社 )で即位する。
136年
春三月、神武天皇、崩御。
137年
畝尾山=香春岳 一ノ岳の東北の位置にあたる畝尾山東北陵( おほきんさん )に埋葬された。
※ 地図上の表記の補足
<神武天皇の出身地>
● 神武天皇の生誕地(熊本県上益城郡山都町塩原)辺り
● 神武東征の出発地である「日向」は、熊本県山鹿市菊鹿町相良
<第二次東征の菟狭に至るまで>
第一次東征に敗れ、3年間、竈門山(宝満山)の高千穂の宮で再軍備をした後に、第二次東征では、
「日を背にして戦う神策」を実行する。
● 筑紫(竈門山(宝満山)の高千穂の宮)より出身地である菊池/山鹿に戻る
● さらに南下して、五ヶ瀬川水系に入り、美々津(日向の海側)に出る
● 日向より北上し豊予海峡(速吸門)に至り、珍彦を道案内とする。
※ 下記の地図上の二点鎖線の赤丸の範囲が、 射手引神社社伝の東征ルート です。