「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-
 (令和二年八月二十日(木)、第16回 古代史講座 第2部、主催 田川広域観光協会)より

 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-

「三国(魏・呉・蜀)時代の地図」

©三国志展

福永晋三
主催:田川広域観光協会
第16回 古代史講座 第2部
令和二年八月二十日(木)
卑弥呼の鏡神功の鏡
 -倭国の魏鏡東鯷国の呉鏡

  『卑弥呼の鏡と神功の鏡 -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-』(令和2年8月20日)の7分割の講演
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 昨年、東京と九州で行われた三国志展の地図に・蜀とあるが、その東側の日本列島の北部九州に倭国、その直ぐ南側に狗奴国を入れ、 近畿地方の京都丹後辺りを中心に東鯷国という国名を追記している。

 これらの国名は、中国の史書『魏志倭人伝』。その前の『後漢書』東夷伝倭国条に書かれている国名である。
 その国々の土地に出土する弥生時代の鏡について語っていく。

 

■ 三国志展にちなんでダンワラ古墳出土の鉄鏡は、卑弥呼の鏡か

● 三国志展のサイトから抜き出した要点

三国志展に再現された魏の曹操の高陵

曹操墓の内部(河南省安陽市)
提供:河南省文物考古研究院

「曹操墓の内部」

呉の皇族墓上坊一号墓(江蘇省南京市)
提供:南京市博物総館

「呉の皇族墓上坊一号墓」

 

三国志展に再現された魏の曹操の高陵

石牌(せきはい)(ぎの)()(おう)常所用(つねにもちいるところの)(かく)()大戟(だいげき)

石牌「魏武王常所用挌虎大戟」

呉 貨客船 土製
後漢~三国時代(呉)・3世紀  2010年、広西チワン族自治区
貴港市梁君垌一四号墓出土 広西文物保護与考古研究所蔵

「呉 貨客船 土製」

 「魏武王常所用挌虎大戟」と書かれた石牌により曹操の高陵と決定付けられた。

 

● 日田市ダンワラ古墳出土の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 」

緊急公開決定! 注目集める鉄の鏡
会期:令和元年11月6日(水)~令和2年1月19日(日)
会場:九州国立博物館4階文化交流展示室 第2室

曹操の墓から出土した鉄鏡と似ている!?

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)

鉄製、金・銀・鉛ガラス他象嵌
後漢時代・2~3世紀
東京国立博物館蔵

 2008~2009年に中国で曹操の墓が発掘されまし
た。曹操墓から出土した鉄製の鏡と大分県日田市
ダンワラ古墳出土の鉄鏡の類似が一部の紙面で今
年9月に報道され、大きな反響を呼んでいます。
 これを受けてダンワラ古墳出土の鉄鏡を特別展
「三国志」の会期途中に緊急公開します。

「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」

 

● 鉄鏡の中心円部に「長冝子孫」の4文字が刻まれている 」

日田市ダンワラ古墳出土の鉄鏡
 復元イメージ図
「瑠璃の星☆彡」から転載
「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」
「長冝子孫」

(長冝子孫)

 田川郡を中心として遠賀川流域のあちらこちらから出土している内行花文鏡=後漢式鏡と呼ばれる鏡には、長冝子孫の4文字が刻まれた鏡が出土している。
 したがって、このダンワラ古墳出土の鉄鏡も後漢時代の鏡であることが解る。

 

● ダンワラ古墳出土の鉄鏡と卑弥呼を関連付ける傾向にあるが

金銀錯嵌珠龍文(きんぎんさくがんしゅりゅうもん)鉄鏡の評価

2019年9月6日
“華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判
をおす古(いにしえ)の鏡がある。
「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」。
 大分県日田市で戦前に見つかったものとさ
れ、装飾の巧みさから1964年に重要文化
に指定された。
 由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国
の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同
じ型式である可能性が高まっている。
曹操自身も金象嵌の鏡を後漢皇帝に贈ったと
の記録もある。   
 卑弥呼が銅鏡とは別に特に贈られたとする
説。
  (朝日新聞)

「三国志の英雄」として知られる曹操(15
5~220年)
の墓「曹操高陵」を発掘した
中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・
イヒン)
氏が、大分県日田市のダンワラ古墳
出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文
鉄鏡」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらっ
た「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いと
する見解
を明らかにした。
 佐賀新聞社の取材に応じた。(佐賀新聞)

 曹操は、西暦220年に亡くなっているので、ダンワラ古墳出土の鉄鏡は、曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式であれば、製造年の下限は、西暦220年でありそれ以前に作られた事になる。

 卑弥呼が魏に遣いを出したのが、西暦238年であるから、この鉄鏡は、卑弥呼が貰った鏡というのには著しく低い可能性がある。

 

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の評価

「X線で調べたところ、象嵌の龍と思われる
文様が見つかった」。
 2008年に曹操の墓と確認された「曹操
高陵」から出土した鉄鏡について、河南省
物考古研究院の潘偉斌研究員が発言。
「画像でみる限り、文様も装飾も日本の大分
県日田市
から出土したという鏡に酷似してい
る。直径も21センチでほぼ同じ大きさだ」
と興奮気味に語った。

 佐賀女子短大の高島忠平名誉教授は「ダン
ワラ古墳の出土品ではないのでは。
 出土地について古美術商が言うことは必ず
しもあてにならない。
 あの鏡を邪馬台国九州説の証しと考えるの
は厳しい」。 (朝日新聞)

 ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21・1センチ。
鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金
銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠
がはめ込まれている。
 手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、
銘文は「長冝■孫」(欠落部分の■は「子」
と推測される)の四文字が刻んである。
 九州国立博物館が管理している

 潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出
土鉄鏡を確認した上で「この鏡は国宝級の貴
重なものであり、公式なルートで日本に伝わ
ったと考えられる」と述べた。(佐賀新聞)

 記事の中で気になったのが、「朱色のうるしで彩色した珠」である。

 

● 曹操の亡くなる西暦220年までは、後漢時代

日田の鉄鏡は卑弥呼の鏡か
卑弥呼の時代の東アジア
「後漢時代(~A.D220年)の地図」(朝鮮半島、西日本(倭国・東鯷国)を含む)

 ダンワラ古墳出土の鉄鏡を卑弥呼がもらってきた「銅鏡百枚」の中に数えるには、無理があると思う。

 

● 三国時代に日本列島にあった国々(倭国狗奴国東鯷国

日田の鉄鏡は卑弥呼の鏡か
卑弥呼の時代の東アジア
「三国(魏・呉・蜀)時代の地図」

 

■ 後漢を継承した魏に遣使した卑弥呼の鏡は、魏鏡になる

 卑弥呼は、弥生時代の後期ほぼ末期の人物であるが、その弥生時代についてである。

・・・ 倭国は、『日本書紀』紀年の神武天皇即位年である紀元前
   660年に日子山に祭られている大物主が作った。

 

● 弥生時代の倭国=豊国の歴史

 通説の弥生時代の年代での私の説である倭国=豊国の歴史である。最初は、倭国のはじまりである八千矛の時代がある。

弥生時代の倭国=豊国の歴史

 弥生
 早期

 弥生
 前期

    弥生
    中期

  弥生
  後期

 弥生
 終末

前400

前300

前200

前100

0

100

200

八千矛の時代
伊弉諾尊 細型銅剣の時代
遠賀川式土器
火カグツチ(火男)
121年 神武天皇即位邪馬台国
107年 倭面上国王帥升生口献上
     漢委奴国栄える
57年  後漢の光武帝金印を下賜
前14年 天照大神笠置山に降臨
素戔嗚尊出雲王朝を創建
八俣の大蛇(八幡神)「天叢雲剣」
300頃 日本武尊「草薙剣」
238年 帯方郡(魏)に遣使
200年 卑弥呼共立

・・・ 神武天皇が、大物主以来の邪馬臺(やまと)国(=倭国)を
   建てるが、その間に倭奴(いぬ)国の時代があった。

 

 卑弥呼の時代に入って行くが、私の説では、神武天皇より後の時代の人物である。実は、神武天皇が邪馬臺(やまと)国(=倭国)を建てた。
 大物主のずーっと後の時代である。

・・・ 神武天皇は、大物主の子孫がいた鷹羽の国で、子孫の姫と
   婚姻し、西暦121年に即位する。

 

・・・ 卑弥呼は、呉の敵対国である魏に遣いする。その卑弥呼が
   倭迹迹日百襲姫命であればその箸墓が田川にある。

 

・・・ 『呉書』に書かれた亶州が、『後漢書』にある東鯷人の国。
   その土地から呉の會稽へ連れて行かれた一人が浦島太郎である。

 

・・・ 三角縁神獣鏡は、東鯷国の人と呉の工人が協力して作った鏡で
   あり、呉の年号「赤烏」銘の鏡が山梨・兵庫県から出土している。

 

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 弥生時代の鏡について、卑弥呼と神功皇后が関わって日本列島(西日本)の東西に倭国と東鯷国という別の国々が存在した。
 この事は、通説の歴史学者たちが言ってこなかったが、高島忠平先生のように冷静に見つめられた考古学者は、卑弥呼の鏡と近畿の鏡を分けていた。
 したがって、私の文献史学は同じ方向であった。東鯷国という名前を出し、その土地に呉の鏡が出土している。
 後漢式の鏡は、田川から多く出土している。鷹羽の国、万歳である。