「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
古代田川に天皇がいた2
▶ 『古代田川に天皇がいた2』(平成30年3月21日)の6分割の講演動画の「再生リストの
全体を見る」の画面表示を こちら からリンクしています。
早期(先Ⅰ期)
前期(Ⅰ期)
早期前半
早期後半
前期前半
前期中葉
前期後半
縄文
晩期
前1000
前900
前800
前700
前600
前500
中期(Ⅱ~Ⅳ期)
後期(Ⅴ期)
中期前半
中期中葉
前期後半
後期前半
後期後半
弥生
早期
弥生
前期
弥生
中期
弥生
後期
弥生
終末
前400
前300
前200
前100
0
100
200
弥生
早期
弥生
前期
弥生
中期
弥生
後期
弥生
終末
前400
前300
前200
前100
0
100
200
◆ 呉越同舟(孫子)の故事は、歴史史実と考えている
◆ 江戸時代に書かれた『松野連系図』の最初が、呉王夫差となっている
◆ 古代、菊池川流域に「茂賀の浦」という大きな湖があった
◆ ジャポニカ種という稲と天然記念物のアイラトビカズラの原産地は、長江下流域である
◆ 呉の人々がやって来た菊鹿盆地
◆ 遠賀川流域(古代は湾になっていた=古遠賀湾)が、倭国の中心である
◆ 越の人々がやって来た土地に遠賀川式土器が出現した
◆ 古事記・日本書紀に書かれた神々は、遠賀川式土器の出現時期と重なる
◆ 伊弉諾尊は、遠賀・田川の神である
◆ 伊弉諾尊の次の王は、天照大神尊ではなく、素戔烏尊である
◆ 素戔烏尊の建てた須賀の宮が、飯塚市の内野老松神社である
◆ 旧筑穂町に「出雲」という交差点ある。ここが、素戔烏尊が須賀の宮を建てた出雲の国か
◆ 素戔烏尊が退治をした八俣遠呂智一族も鍛造の鉄剣を携えて長江下流域からやってきた
◆ 八剱神社という神社が示すように八俣遠呂智の尾っぽから出た草薙剣は8本あった
◆ 弥生人骨の分類が、天神降臨の史実を示している
◆ 天忍穂耳命が祭られている英彦山は、天皇家と深く関わっている
◆ 添田町の語源となったのが、「ソホリ(添)」の里である
◆ 赤村石舟に天押穂耳尊の降臨を示すモニュメント、天の岩船が残されている
◆ 本物の天照大神と考えている饒速日が、遠賀川流域に降臨してくる
◆ 弥生時代の鉄も長江下流域から入って来た
◆ 奈良県(大和)には、弥生時代の鉄が無い
◆ 六ヶ岳の所から饒速日(天照大神)が、素戔烏尊を攻めていく
◆ 饒速日が紀元前14年に建てた国が、天満倭(そらみつやまと)国=倭奴国である
◆ 古事記にある天の石屋戸、天の金山、天の香山がすべて田川・香春にある
◆ 後漢の光武帝から金印をもらったのが、当然、香春にいた天香語山命である
◆ 海人族(天神族)が、侵略に成功した土地に建てた天磐船のモニュメントが舟石である
◆ 金印を貰ってきた倭奴国(田川・香春)の人々は、紀元前後にすでに周里を使っていた
◆ 神武天の父、鸕鷀草葺不合尊は、呉の人々がやって来た火国山門の人である
◆ 神武天皇が、西の筑紫方面から東の豊国を攻めるのが、神武東征の本質である
◆ 神武第二次東征は、筑紫から菊池・山鹿に戻り、宮崎方面に迂回する
◆ 神武第二次東征で最初に攻めた場所は、天香山(香春三ノ岳)のある香春である
◆ 立岩丘陵の籠る磯城彦、鳥見野(直方市頓野)の長髄彦を撃ち、倭奴国が滅亡する
◆ 求菩提山縁起によれば、神武東征は、瀬戸内海を渡り奈良県(大和)へ行っていない
◆ 卑弥呼の時代は、神武天皇が邪馬台(やまと)国を創始してから7、80年後である
◆ 香春町の宮原遺跡の近くに前方後円墳の地形がある
◆ 宮原遺跡は、奈良県のホケノ山古墳より100年以上前の倭国大乱の時代である
◆ 西暦200年、卑弥呼共立から、240年の魏使が邪馬台(やまと)国にやって来るまで
◆ 南宋時代の魏志倭人伝にある對海國・一大國ではなく、對馬國・一支國である
◆ 魏志倭人伝に書かれている伊都国の津は、鞍手町の新北津である
◆ 倭国大乱は、越の子孫の女王国と呉の子孫の狗奴國との戦いである
◆ 末盧國は、宗像市の田熊石畑遺跡(今は、いせきんぐ宗像)である
◆ 末盧國から伊都国、奴国、不彌国へ至り、邪馬台国へ
◆ 不彌国は、糸田町宮山の大宮神社である
◆ 卑弥呼の都も墓も田川にあるのか?
◆ 川崎町の田原遺跡は卑弥呼の都である環濠集落の遺跡である
◆ 赤村の横枕・大原地区の遺跡群も弥生時代の大きな集落の跡である
◆ 赤村内田の前方後円型地形は、魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の大きさにピッタリである
◆ 前方後円型地形に土砂崩れの跡が見られるのは、何故か
◆ 弥生時代と思われる土器片が、前方後円型地形の竹やぶから出土している
◆ 崇神紀の箸墓伝説に出てくる大坂は、奈良県の大阪ではない