「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 香春の神と天皇 (その1〜3)

香春岳(倭三山)(下部分カット版)
香春の神と天皇
香春町郷土史会例会

 (註)

 本ページは、講演で紹介された一部を管理人の判断で切り取り作成しています。ご容赦下さい。

           

 香春の神と天皇(その1) (令和6年1月6日)

(1)大国主の国造り

 『古事記』にある大国主の国作りは、大物主の書き換え

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(2)素戔烏尊と草薙剣

 八俣遠呂智退治の真相(古事記)

 弥生中期 鉄剣の時代

 出雲王朝の成立(古事記)

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(3)

 天忍穂耳尊(新物部氏の祖饒速日尊の父)は、月氏から渡来人

 講演「伊都国の歴史」(令和5年11月26日)の中で「彦山権現垂迹縁起書」、「鞍手郡誌」等の内容を紹介した天忍穂耳尊の出自と上陸地点のページがこちらにあります。

 天磐船(あまのいわふね)の痕跡と思われる「舟石」が赤村、福岡市早良区小笠木等の各地に残されている。また、佐賀県鳥栖市の舟石権現は、帆掛け船の形で残されている。

(4)

 饒速日尊の天満倭国=倭奴國の成立

 素戔嗚尊は、天照大神こと饒速日尊(宮若市宮田町磯光に鎮座する天照宮に祭られている男神)に倒される。
 それがこちらで紹介した「前14年 饒速日(天照大神)、葦原瑞穗國の笠置山に降臨」であり、倒された素戔嗚尊の処刑の場面が、『古事記』にある天の岩屋戸伝承で考えている。

 素戔烏尊の終焉地「天の岩屋戸」は、田川市夏吉にある岩屋第一鍾乳洞。現在は、岩屋(ごうや)と呼ばれている。そして、北九州市小倉南区長尾4ー1には素戔嗚尊の墓もある。

 天照大神こと饒速日尊は、笠置山に降臨した後、素戔嗚尊を倒すために古遠賀湾を渡り香春の地までやって来た。その痕跡が採銅所にある清祠殿であり、その建物の後ろにある社には、天照大神が祀られている。また、この近くにある天矢天照皇太神宮も当然、天照大神が祀られている。
 したがって、饒速日尊は香春三ノ岳(天香山)の近くに宮殿を構えた。そして2代目の天香語山命が、後漢の光武帝から金印を授かったという事に繋がっている。

 饒速日尊が建国した倭奴(いぬ)國の遺跡は、令和5年9月30日講演「宮若市・鞍手郡の古」で「吉野ヶ里と筑豊の共通点」で紹介している。

(5)

 神武東征 〜 女王卑弥呼の共立まで

 神武東征については、講演「宮若市・鞍手郡の古」の中に「筑紫から菟狹に至り、英彦山を越え田川へ」と「倭奴国滅亡し、邪馬臺国成立」のページで紹介しています。
 尚、詳細については、2020年版 神武東征(全7回シリーズ)のページもありますので参照下さい。

 また、『万葉集 巻第一』1番歌が、神武天皇の「立皇后」に関する歌であると解釈している。

 次は「神武崩御後、倭国大乱へ経て卑弥呼が共立」へと続く。尚、このページでは、「卑弥呼の死」のスライドの次のタイトルを「邪馬臺(やまと)国のその後」から「大物主神の妻の死」と変更されています。

 卑弥呼の墓は、令和5年3月上旬までのGoogleEarthで、赤村内田古墳と表示されていた全長460mもある大きな前方後円墳だと考えている。

 『魏志倭人伝』に云う卑弥呼は、『崇神紀』の倭迹迹日百襲姫命であり、『応神記』の阿加流比売である。そして、『豊前国風土記』の新羅から河原に来た神でもある。
 『太宰管内志』に香春ノ神は比売語曽神とあるが、その香春神社の祭神が、和銅二年((709年))辛国息長大姫大自命に変えられた。つまり、比売語曽神は、現在の大分県東国東郡の姫島(比賣語曾社)へ流された。

           

 香春の神と天皇(その2) (令和6年4月6日)

 尚、卑弥呼の墓(赤村の前方後円墳)については、「~ 卑弥呼の墓赤村説 ~」(令和3年3月14日)の講演時より新しいスライドで説明されていますが、ここでは割愛させて頂きます。

(1)

 垂仁天皇の時代に陵墓は殉葬から埴輪が立てられるように変わった

 「埴輪の起源」の話であるが、桂川町の土師こそ埴輪が日本で最初に造られた土地であり、古墳と埴輪の取り合わせは、筑豊の地に発祥したと考えている。

 そして、垂仁天皇の菅原伏見陵は、嘉麻市漆生(うるしお)にある沖出古墳と考えている。

(2)

 二人の日本武尊、景行天皇が鷹羽國へ攻め込む

 この項目については、「ここにあり 邪馬臺国!」(令和2年11月1日)で説明されている「大足彦忍代別天皇の豊国北伐」のページを参照して下さい。

 この講演では、「二人の日本武尊」の説明の中で、川崎町安眞木(あまぎ)にある川上神社の存在を紹介されました。

 『景行紀』の「十二年秋七月」記事に出てくる神夏磯媛が祀られている神社が、田川市夏吉の若八幡神社である。こちらに「香春の神と天皇(その1)」で若八幡神社御縁起はすでに紹介している。

(3)

 日本武尊は邪馬臺国防衛の為、景行天皇と戦う

 この項目については、「ここにあり 邪馬臺国!」(令和2年11月1日)で説明されている「倭建命天皇の倭国防衛戦」のページを参照して下さい。

(4)

 ヤマトタケルと白鳥伝説(戦に敗れて亡くなる)

 記紀によれば日本武尊は、「伊勢の能褒野(のぼの)」で国しのびの歌を詠み亡くなったとある。この場所が、『上野村史』から福智町上野(あがの)だと解った。

 『古事記』の一節「足が三重に勾がり」に関する伝承と思われるのが、香春町の採銅所にある古宮八幡宮神幸祭の時に準備される「おまがり様」ではないかと思われる。
 この古宮八幡宮の摂社に白鳥神社もある。ここが3基作られたとされている第1基目の白鳥の御陵ではないかと考えている。

 第3基目の白鳥の御陵は、鞍手町新延(にのぶ)にある鎧塚古墳(1号墳)と思われる。この隣には、剣神社もある。

(5)

 成務天皇の事績について

 こちらの「新説日本書紀⑯ 成務天皇(筑豊の大乱後、復興に務める)」の中で、『三国史記』新羅本紀にある下記の記事が、成務天皇の事績と考えられている。

 西暦312年

 倭国王が使者を遣わし、皇子のために婚姻の要請をした。

 ⇒ この312年の倭国王は、成務天皇であろうと推定している。

 但し、「封建制から郡県制に移行」については、倭五王(倭王武)の業績だという事が判ったのでこの講演では外す。
 しかし、成務天皇は、郡県制(郡、縣、稲城を置いた)の事は判っており、『鞍手郡誌』に驚愕すべき具体例が残されている。この具体例「成務天皇郡縣制度と鞍手郡の貴族」を講演「伊都国の歴史」(令和5年11月26日)の中で話されています。

 『古事記』によれば、成務天皇は、志賀の高穴穂宮で天下を治めたとあり、その宮跡は直方市頓野にある近津神社の地と思われる。

           

 香春の神と天皇(その3) (令和6年7月6日) 

(1)比賣語曾神は、豊前の土地にいた

 『日本書紀』垂仁天皇紀は、鶴我家系図に書かれている「日本記」が元となっている

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(2)阿加流比賣神は、新羅から香春にやってきた

 『垂仁紀』の都怒我阿羅斯等と『応神記』の天之日矛(あめのひぼこ)は同一人物であり、天之日矛は新羅から阿加流比賣(あかるひめ)を追ってやって来た

 『豊前國風土記』曰く、新羅の國の神は、鹿春の神となった

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(3)

 神功天皇(神功皇后)の征西・熊襲征伐について

 『古事記』の系図によれば、神功皇后の出自を辿れば、先祖は欠史八代の最後になる第9代開化天皇である。また、母葛城高額比売の先祖をたどると天之日矛である。その神功皇后は、気比の宮(敦賀市の氣比神宮)を発し征西に出る。

 気比の宮から出てきた神功皇后は、穴門(下関市)に入り、そこから豊国にいる熊襲を次々に征伐していく。それを示した図がこちらの「神功皇后の戦略と魏使の経路」である。

 帰順した伊都県主の五十迹手が二人目の仲哀天皇と考えているが、その仲哀天皇が、羽白熊鷲征伐の時に敵の矢に当たり崩御する。その仲哀天皇の棺を担いできて立てた筑紫の橿日宮は、飯塚市にある負立八幡宮と思われる。
 この飯塚市の負立八幡宮(橿日宮)から神功紀の「北の方」とある宗像市(松浦縣)の勝門比賣征伐に向かう。その時に詠まれた倭歌が、万葉集の9番歌8番歌である。

 神功皇后の三韓征伐の以降は、講演「再発見 新発見 田川 川崎町は古代の京だった(令和元年10月27日)」の中にあるこちら新説日本書紀㉒  神功皇后⑥(豊国に戻り皇位を争う)」のページも参照して下さい。また、西日本新聞・筑豊版(2018年11月10日発行)のpdf版こちらにあります。

 上記の内容で神功皇后が応神天皇を出産したのが、宇美八幡宮の地である。ここ糟屋郡から山越えをして嘉穂郡へ向かう。そのショウケ越をして、飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮に入る。そして、この地で軍隊を解散した。
 また、川崎町池尻にある大石神社の末社帝階八幡宮御由緒には、記紀とは相当に矛盾する伝承が残されている。

 また、「氣長足姫尊の豊国北伐」の中に「御所ヶ谷(山城京)に拠る忍熊王(熊坂王)を殲滅」するのページがあります。そして、この「忍熊王との戦い」が起源となったのが、風治八幡宮川渡り神幸祭ではないかと考えている。

 最後、忍熊王を滅ぼした後、神功皇后は安心して香春町鏡山の地に来られて、この鏡乃池を水鏡にされたという伝承が残されている。

(4)

 神功皇后の豊国、紀武内宿禰の筑紫国の2王朝が並立

 西日本新聞  筑豊版(平成30年12月8日発行)の『新説日本書紀㉓(豊と筑紫に2王朝並立)』の中に次の2つの項「神功天皇位登宮で即位」と「応神天皇は2人いた」があります。こちらからpdf版を参照して下さい。

 神功皇后の若桜宮は、田川市川宮にある若咲(わかさ)神社と思われる。また、神功の陵は、その近く田川市見立(みたて)にある大きな前方後円形地形ではないかと考えている。

 『古事記』仲哀記の品陀和氣(ほむだわけ)命(誉田別)と『日本書紀』神功紀の誉田(ほむた)天皇とある「誉田」について追求した結果が、「応神天皇は2人いた」との考えに至った。

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 『応神天皇紀』には、筑紫国の誉田天皇(倭讃)豊国の誉田別天皇の記事が、合わさって書かれている。

(5)

 真実の仁徳天皇

 『応神紀』四十年記事に書かれている通り「皇太子は、菟道稚郎子」である。

 『応神記』に太子大雀命とあるが、「太子に髪長比賣を賜う」との部分には固有名詞が書かれていない。『応神紀』では、あくまでも皇子大鷦鷯尊とあり、大鷦鷯尊は太子ではない。応神天皇から髮長媛を賜ったのは、太子菟道稚郎子である。

 『仁徳紀』に3年間空位とあるが、この3年間が太子菟道稚郎子が、菟道宮で宇治天皇として在位していた。宇治天皇という呼称は、『播磨國風土記』揖保郡に残されており、その宇治宮については、『万葉集』7番歌に詠われている。

 真実の仁徳天皇(=宇治天皇)が、天香山(香春三ノ岳)に登り国見をした時の歌が「万葉集2番歌であり、その宇治天皇の国見を見送った時に詠まれた歌が、皇后髪長媛が詠まれた歌が万葉集28番歌である。

 宇治天皇が、三度目の国見に行橋市の幸ノ山(高山)へ行幸された時に大鷦鷯の乱により殺害される。そして、宇治天皇崩御後に髪長媛皇后によって詠まれた歌が万葉集85〜88番歌の四首である。

 大鷦鷯の乱で殺害された宇治天皇の陵については、『万葉集』1795番に詠われており、また、『鏡山村史』に伽羅松について記されている。そして、『続後紀』に散骨されたとある。

 また、菟道稚郎子の同母妹である女鳥王も殺害される。速総別王と女鳥王は、伊勢神宮(宮若市の天照宮)へ逃避を図るが、その障害となったのが鞍手町の飯森山(倉椅山)である。そして、伊勢の蔣代野(飯塚市の蔣田)で殺される。
 その雌鳥皇女女鳥王)が、隣の嘉麻市山野にある若八幡神社に祀られている。

 大鷦鷯(おほさざき)天皇の天下となった後、鷦鷯(さざき)」系の皇統の最後の天皇が、武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき)天皇)である。田川市伊田にある改葬されていない瀬須殿古墳が、武烈天皇陵と推測している。