「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
香春の神と天皇 (その1〜3)
(註)
本ページは、講演で紹介された一部を管理人の判断で切り取り作成しています。ご容赦下さい。
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天忍穂耳尊(新物部氏の祖饒速日尊の父)は、月氏から渡来人
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講演「伊都国の歴史」(令和5年11月26日)の中で「彦山権現垂迹縁起書」、「鞍手郡誌」等の内容を紹介した天忍穂耳尊の出自と上陸地点のページがこちらにあります。
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饒速日尊の天満倭国=倭奴國の成立
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饒速日尊が建国した倭奴國の遺跡は、令和5年9月30日講演「宮若市・鞍手郡の古」で「吉野ヶ里と筑豊の共通点」で紹介している。
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神武東征 〜 女王卑弥呼の共立まで
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神武東征については、講演「宮若市・鞍手郡の古」の中に「筑紫から菟狹に至り、英彦山を越え田川へ」と「倭奴国滅亡し、邪馬臺国成立」のページで紹介しています。
尚、詳細については、2020年版 神武東征(全7回シリーズ)のページもありますので参照下さい。
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また、『万葉集 巻第一』1番歌が、神武天皇の「立皇后」に関する歌であると解釈している。
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次は「神武崩御後、倭国大乱へ経て卑弥呼が共立」へと続く。尚、このページでは、「卑弥呼の死」のスライドの次のタイトルを「邪馬臺国のその後」から「大物主神の妻の死」と変更されています。
卑弥呼の墓は、令和5年3月上旬までのGoogleEarthで、赤村内田古墳と表示されていた全長460mもある大きな前方後円墳だと考えている。
尚、卑弥呼の墓(赤村の前方後円墳)については、「~ 卑弥呼の墓赤村説 ~」(令和3年3月14日)の講演時より新しいスライドで説明されていますが、ここでは割愛させて頂きます。
そして、垂仁天皇の菅原伏見陵は、嘉麻市漆生にある沖出古墳と考えている。
この講演では、「二人の日本武尊」の説明の中で、川崎町安眞木にある川上神社の存在を紹介されました。
『景行紀』の「十二年秋七月」記事に出てくる神夏磯媛が祀られている神社が、田川市夏吉の若八幡神社である。こちらに「香春の神と天皇(その1)」で若八幡神社御縁起はすでに紹介している。
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『古事記』の一節「足が三重に勾がり」に関する伝承と思われるのが、香春町の採銅所にある古宮八幡宮の神幸祭の時に準備される「おまがり様」ではないかと思われる。
この古宮八幡宮の摂社に白鳥神社もある。ここが3基作られたとされている第1基目の白鳥の御陵ではないかと考えている。
第3基目の白鳥の御陵は、鞍手町新延にある鎧塚古墳(1号墳)と思われる。この隣には、剣神社もある。
西暦312年
倭国王が使者を遣わし、皇子のために婚姻の要請をした。
⇒ この312年の倭国王は、成務天皇であろうと推定している。
但し、「封建制から郡県制に移行」については、倭五王(倭王武)の業績だという事が判ったのでこの講演では外す。
しかし、成務天皇は、郡県制(郡、縣、稲城を置いた)の事は判っており、『鞍手郡誌』に驚愕すべき具体例が残されている。この具体例「成務天皇郡縣制度と鞍手郡の貴族」を講演「伊都国の歴史」(令和5年11月26日)の中で話されています。
『古事記』によれば、成務天皇は、志賀の高穴穂宮で天下を治めたとあり、その宮跡は直方市頓野にある近津神社の地と思われる。
(2)阿加流比賣神は、新羅から香春にやってきた
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『垂仁紀』の都怒我阿羅斯等と『応神記』の天之日矛は同一人物であり、天之日矛は新羅から阿加流比賣を追ってやって来た
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『豊前國風土記』曰く、新羅の國の神は、鹿春の神となった
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気比の宮から出てきた神功皇后は、穴門(下関市)に入り、そこから豊国にいる熊襲を次々に征伐していく。それを示した図がこちらの「神功皇后の戦略と魏使の経路」である。
最後、忍熊王を滅ぼした後、神功皇后は安心して香春町鏡山の地に来られて、この鏡乃池を水鏡にされたという伝承が残されている。
(4)
神功皇后の豊国、紀武内宿禰の筑紫国の2王朝が並立
西日本新聞 筑豊版(平成30年12月8日発行)の『新説日本書紀㉓(豊と筑紫に2王朝並立)』の中に次の2つの項「神功天皇位登宮で即位」と「応神天皇は2人いた」があります。こちらからpdf版を参照して下さい。
『応神天皇紀』には、筑紫国の誉田天皇(倭讃)と豊国の誉田別天皇の記事が、合わさって書かれている。
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真実の仁徳天皇
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『応神紀』四十年記事に書かれている通り「皇太子は、菟道稚郎子」である。
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『応神記』に太子大雀命とあるが、「太子に髪長比賣を賜う」との部分には固有名詞が書かれていない。『応神紀』では、あくまでも皇子大鷦鷯尊とあり、大鷦鷯尊は太子ではない。応神天皇から髮長媛を賜ったのは、太子菟道稚郎子である。
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『仁徳紀』に3年間空位とあるが、この3年間が太子菟道稚郎子が、菟道宮で宇治天皇として在位していた。宇治天皇という呼称は、『播磨國風土記』揖保郡に残されており、その宇治宮については、『万葉集』7番歌に詠われている。
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宇治天皇が、三度目の国見に行橋市の幸ノ山(高山)へ行幸された時に大鷦鷯の乱により殺害される。そして、宇治天皇崩御後に髪長媛皇后によって詠まれた歌が万葉集85〜88番歌の四首である。
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大鷦鷯天皇の天下となった後、「鷦鷯」系の皇統の最後の天皇が、武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯天皇)である。田川市伊田にある改葬されていない瀬須殿古墳が、武烈天皇陵と推測している。